震災の記憶
小川 葉

 
 
仙台は、あの大きな揺れのあとも、不気味な地鳴りの音が鳴り止まずに、世紀末感、たっぷりでした。それから駅のエスパルから煙があがってた。ヘリが空を飛び、警官は、津波が来るから高台へ!と叫んでた。仙台市バスの駐車場に避難してたら、中に避難してくださいと、職員がバスの中に入れてくれた。それからメールが通じないと、いやしかし、Twitterから連絡がきたと声が上がる。携帯のワンセグを見てるひとの画面には、石巻港が、静かに水に浸っていく様子が見えた。こんなもんなのかな、いやきっと、こんなもんじゃない。津波は、仙台の街中には結局こなかったけど、これは来る!と思ってたら、雪が降ってきた。歩道を人が埋め尽くしていた。ふと家族のことを思い出して、もしダメでもいいように、とにかく無理して笑ってた。笑うしかなかったな。家に着くと、家の前で、妻が隣の、おばあちゃんと話をしていた。その脇で、息子がぽつんと立ちつくしていた。雪の降る中に。家に入ったら、めちゃくちゃだった。家に入ると、余震が来るので、怖くて出たり入ったりした。そうしてるうちに、とにかく食べ物の確保を、となって、コンビニにいくと、大行列。並んでもほとんど何も買えないようだった。あきらめて、家に帰る途中、近所の商店の前に、店の夫婦が立ちつくしていた。なにかありますかと、聞いたら、カップ焼きそば残ってますといった。いいんですか?と念を押して、三つ買ってきた。それが震災当日の、夕ご飯になった。水道が止まりかけていた、残りの水を、石油ストーブで沸かして、一杯分のお湯を、三食分わけた。おれの焼きそばはぬるくてかたかった。それから、寝室で寝ようとしたけれど、寝室にはいるたびに、余震が来て、出たり入ったり繰り返していた。しかたなく、キッチンに布団を敷いた。玄関が近いので、すぐ外に逃げられると思った。眠ろうとすると、またすぐに余震が来て、眠れなかった。ラジオをつけると、荒浜で、数百人の遺体がと聞こえた。昔、海水浴にいった荒浜。嘘のようだったけど、ありえることだなと思いながら聞いていた。しかし、この余震、眠れない。眠らなくていいけど、余震は収まってもらいたい。そうこうしてるうちに、眠っていた。その間にも、眠ることが、できなかった人がいたことを、後に知った。
朝、起きても、情報は得られなかった。とにかく、食べ物と物資を。それを本能のように、求めていた。大きなスーパーには行列ができているので、小さな商店をまわった。そこから少し、また少し、食べ物を手に入れた。普段いかない、小さな店ばかりだった。そこから、食べ物とモノを調達した。なくなり次第閉めますと、書かれていた。百円ローソンは、すぐにしまっていた(後に閉店した)。
三日後くらいの夜、突然、外が、明るくなった。それまで、これまで見たことのない星空が見えていた、家の外が、突然、明るくなった。終わったと思った。そしたら、家の電気がついていた。停電が復旧したのだ。しかしそれから、ガスはしばらくこなかった。その間に、何度か職場に出社した。ガスが通った。仕事も少しずつ、回復した。その間に、私は家で子供とよく遊んでいた。よい、機会だった。その間に、故郷へ帰ろうと考える、よい機会ができていた。
あの震災は、ふるさとの意味を教えてくれた。あの震災がなかったら、ふるさとの意義は今も曖昧だったことだろう。
あの時の記憶の延長に、今の私の意識がある。それは無意識に、今に続いている、と言ったら大げさかもしれないけれど、おもいかえせば、それはとてもきれいに、ここまで続いているのだ。かつてこのような、宇宙の自然現象を、感じたことはない。
それほど、私の人生にとって、大きな出来事なのであった。
震災の追悼とは、こうでなきゃならない。そう思いながら、あの時のことを、思い出していた。思い出したくもないけれど。
 
 


散文(批評随筆小説等) 震災の記憶 Copyright 小川 葉 2013-03-12 00:22:00縦
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