川柳が好きだから俳句を読んでいる(1、野村満花城のこと)
黒川排除 (oldsoup)

 俳句は嫌いだった。川柳は言わずもがなだった。こういった含みたっぷりの自己紹介から入るほど崇高なことを書こうとしているのでもないし今でも割と俳句の未来なんてどうでもいいと考えているけれども、じぶんが好きなもののことを整理整頓するべくこういう文章を書こうと決めたので書いている。多分好きな俳人のことを書くだろう。こういう文章は、後でもう一回名前を出すかもしれないけど、この現代詩フォーラムにいる佐々宝砂がかなり昔にやってて、こういうのいいなできたらいいななどとそこはかとなく思ったところから来ている、だからそういうフォーマットが多数ある中でもそのように、つまり自分の好みの、もっと言えば季語なんか突き抜けた、堅苦しくない、ぶっ壊れた、狂乱の限りの、脳天気な、俳句および俳人のことを書いていくつもりだ。

 季語! 季語だ、何よりも俳句が嫌いだったのはこの季語のせいだ。覚えることが多くてしきたりが多くて季節に準じてないといけない。敷居が高くなるのはこの季語のせい、といえば一般的だが、個人的には季語季語うるせーんだよクソがという思い、まああとおまけで定型への嫌悪感、がある、が、季語だ季語、それで俳句は嫌いだった。冒頭の一文に戻るわけである。川柳がなおさら嫌いだったというのはそれが○○川柳といえば575で何かうまいことをいう、程度の使い方をされていることに俗っぽさを感じていたからだった。その事実は、今では、そういう使い方をもされている、と捉えることにしている。助詞は重要ですね。ともあれ綾小路きみまろにパクられてすらいたようなステージが昔は大嫌いだった、というのが川柳や俳句に足を踏み入れるまでの昔話。長くなった、本題に移ろう。

 今日野菊うつくしくドラム罐ころがして運ぼう

 おれは現代詩フォーラムにいて、現代詩を書いていた。当然古本屋で詩集なんかを見て回るわけだ。そこであるとき、「石川近代文学全集」なる豪華版の本が切り売りされているのを発見したわけだ、場所はブックオフ。もうなくなってしまったブックオフだ。一番から二十何番まで、室生犀星、泉鏡花、徳田秋声、あとは出身でもなく一時期身をおいただけなのに勝手に石川の地名を冠された作家もいた。その十六番が「近代詩」だった。これはブックオフや古書店で見たことあるひとならわかるかもしれないけど、全集ものってやつは大概その連番の最後にこういう詩集や句集をおくわけ(ちなみに筑摩書房の現代詩集・句集・歌集はこの手のものにしてはいずれも内容が秀逸、現代歌集の新短歌抜粋は異様にトチ狂っている)。でその、現代詩集の中身をパラパラめくって、こりゃ面白いアンソロジーだと思って買い、家に帰ってジロジロ見ていると、買った時より強く面白さを感じた。それで、その日のうちに、その横にあった「近代短歌」「近代俳句」「近代川柳」を買って帰った。それでそれで、近代句集をパラパラめくっていた時にひどくビックリしたのが野村満花城の俳句だった(ちなみに野村満花城も石川ではなく富山の人間)。「今日野菊うつくしくドラム罐ころがして運ぼう」、なんだよこれという印象、俳句? この俳句が気になって何度も何度も暗唱した、ゴーシチゴーじゃないとかそういう問題じゃない、パンパンじゃないかよ入れ物が、という気すらする。ところが心地よさはある、その正体はなんだ、と。……リズムだ、リズムがあるんだ、数日考えて、かどうかは覚えてないけど考えぬいた末に気付いた、リズムがあるんだこの句には。くわしく書くと、k音のリズムと脚韻。き(k)ょうのぎ(k)く(k)うつく(k)しく(k)ドラムか(k)んこ(k)ろが(k)してはこ(k)ぼう、であり、「今日」「野菊」「うつくしく」「運ぼう」でu音の脚韻を切っている。
 
 鶺鴒飛ぶ青き流れ細き流れ
 ここ二三日はこの気圧の谷つつじ真紅に咲いて
 午前十時時計がはっきりと鳴り庭の白菊黄菊

 俳句が五七五にこだわらなくていいものだと、そこで初めて気付いたのだった。誰がなんと言おうと、つまりうるせえジジイがやれ季語がどうたらとか五七五が字余りが字足らずがどうだとかゴチャゴチャ抜かしていても胸を張って無視すればよかったのである。そこでおれが川柳というジャンルを選んでいるのは、そういうジジイすら寄り付かないようにするためなのと、あと一点は先ほど買った近代川柳の中にあった、プロレタリア川柳が主体となり夭折した鶴彬の作品に流れる詩情に突き動かされたからだけど、俳句的な態度というのはそういうものだろう、じぶんの雰囲気とじぶんのリズムを、意識的にでも無意識的にでもいいから提示すればいい、提示しときゃいいのである。もちろんこれは定形を否定するものではない、定形をやりたいひとを自由律の人間が責め立てる理由はどこにもないだろう、縛られてるほうが気持ちいいってことだってア〜ンあるんだからね、おれが言いたいのはその逆、自由律が定形を責め立てることがないように、定形が自由律を責め立てることがあってはならないということ、まあこれはこの文章全体の結論ではないけど、殺しあう必要はないよなって思ってる。むしろここで主張したいのはじぶんの形にしたいものを形にするという、ただそれだけの話で、おれはそのためのリズムを野村満花城に見出したってことなんだよ。見出したというか、遺体を暴くような感じで内蔵しているリズムのすべてをむしりとってやりたい気持ちすらある。野村満花城こそはおれの川柳の始点であり基礎であり、大げさでもったいぶった書き方をすれば、すべてである。

 (1)と書いたとおりしばらくは、というかじぶんが全句集を持っている俳人、今のところ残り七人だけど、これが終わるまで書くつもりだ。その唯一全句集(そもそもない)どころか句集(生涯ただひとつの)すら持ってない野村満花城が最初ってのもアレだけど、インターネットにこいつのことを書いた文章が少ないのは悔しいから先に出しちゃってもいいよね。ちなみに佐々宝砂の書いた「俳句の非ジョーシキ具体例」とかぶる作家はひとりもいない。というかあの人のやつの方が読みやすいからあっち読みなよ。


散文(批評随筆小説等) 川柳が好きだから俳句を読んでいる(1、野村満花城のこと) Copyright 黒川排除 (oldsoup) 2013-03-08 16:15:05
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