北の亡者/Again 2013如月
たま

 生きる


乾いた空の木の枝は
去年と同じ姿をしている
彼らは信じて疑わない
この冬が
やがて春になることを

人はどうして姿かたちを変えるのだろうか
老いることは人も木も同じはずなのに
この冬空を信じて生きる人は
きっとつよくてやさしくて
ウラもオモテもない人にちがいない

いつもの散歩道
も吉は慌ただしく糞をする
ころころとした健康的なウンチのあと
も吉の腰はしばらく曲がったままだ
いつまでも坊ちゃんのような顔をしているけれど
おまえもしっかり年老いた

北の亡者の許へ
おまえを還す日が近いことを
わたしは十分承知しているつもりだけれど
ほら、あの木の枝のように
つよく生きることはできない
だから
もう少し生きていてほしい

春は近いから
あの冷たい木の枝がもうすぐ
みどりに萌えるから
それをまた一緒に眺めよう
この冬空を信じて
生きてゆこう


           (一九九九年作品)



   ♯


二月はいつも曖昧に暮らしている。
今日は二十七日なのに、もうひとつ、日曜日が残
っている気がして、楽しみにしていた。
友人のライブが月末の日曜日にあって、行くつも
りで予定を立てていたのだ。
二月の月末って、三十日だったっけ……。
たぶん、そんな曖昧な感覚でいたのだろう。約束
した予定ではなかったから、ことなきを得たが、
気づいたときにはもう、日曜日はどこにもなくて
ちょっと、へこんだ。
十六日には朗読会の予定があって、土曜日だった
けれど、会社は営業日だから有給をとって、車で
一時間ちょっと走って、道に迷って、ようやく、
現地に着いたら、朗読会場の喫茶店が閉まってて、
もういちど案内状を確かめたら、
あらっ、三月十六日かぁ……って、呆れたばかり
だったのに。

書くものが何もなくなってからが、ほんとうの創
作だと、或る作家がいう。小説の場合はたしかに
そうも言えるだろう。では、詩作の場合はどうだ
ろうか。たぶん、いつも何もない状態だと思う。
だとしたら、詩作は、ほんとうの創作だと言える
のか? なんだか、ややこしい話になってしまう。
そもそも、ほんとうの創作ってのが怪しい。
わたしの場合は、年四回発行の同人誌があるから、
何もなくても予定は立てなければいけない。ただ、
それだけの話なら、わかりやすいのにと思う。

二十三日には、若かりしころに所属していた山岳
会の先輩を十数年ぶりに訪ねた。小学校の先生を
していた先輩は、定年後に短歌を書き始めた。
雪や岩と、夢中になって遊んでいたころは、お互
いに、詩歌とは無縁だった。二時間あまり、短歌
や、詩の話ばかり、山の話はひと言も出てこなか
った。八十二歳だという。
ようやく果たせた、十数年ぶりの予定だった。

今年も春一番が吹いて、消えてしまった二月の予
定は、いつか来る日の、予感だったかもしれない。
も吉と歩いたあのころの、果たせなかった予定は
すべて忘れても、残された詩のなかに書き記した
予定は忘れることはできない。それはただひとつ、
生きるということ。何も書けなくなっても、それ
だけは果たさなければいけない。
も吉が残した、わたしの主題なのだから。












自由詩 北の亡者/Again 2013如月 Copyright たま 2013-03-04 09:18:32縦
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