雪迎え(2)
ブライアン

 蚕は逃げ出すことが出来ない。中国で家畜化され、野生に還る能力を持たない。幼虫から蛹となり成虫になる。体内には細胞死がプログラムされている。生きるために、死ななければならない。
 成虫となった蚕は交尾をし、約五百粒ほどの卵を産み、死んでしまう。成虫の生存期間は約十日ほどだ。

 祖母は、次来たときは死んでるごで、と帰り際に言う。当たり前だが、祖母が死んだことはない。実家を離れて十五年が経つ。祖母は老けた。両親はもうすぐ働くことをやめてしまうだろう。新しくつくりかえた部屋も、汚れてくすんでいる。
 
 窓からの景色は変わらない。一時間おきにローカル線が走っていく。景色のほぼ中央には桑の木がある。小さなころ、大きな芋虫が恐ろしくて近づけなかった。恐ろしく大きな木だと思っていたが、それほど大きくもない。桑の木も年老いて縮んでしまったのだろうか。
 日が暮れる。太陽は赤くなる前に、山に姿を消してしまう。日が暮れると周囲は突然暗くなる。山の輪郭をなぞる様に光が放たれている。

 米沢盆地の北にそびえる竜樹山は標高300メートルに満たない小さな山だ。竜樹山を越えるとゴルフの打ちっぱなしがある。そこからは山道が続く。かつては林業で栄えた部落も、車の発達とともに廃れていった。分校があった場所には人の住んでいた形跡はほとんど見られない。分校だけが草木に覆われて立っているだけだ。

 小学生の群れが縦長に伸びている。同級生の男の子が女の子と話をしている。手をつないで歩いている。誰かは誰かにちょっかいを出して、担任の先生に怒られていた。
 川の流れる音がする。目を向けると、小さな小川があった。陽射しの強い日だった。川面に反射した光が、小学生の群れを照らしている。光が頬に当たった女の子が眩しそうに目を瞑った。木の葉の影が彼女のほほに揺れた。

 木と木の間には蜘蛛の糸が張り巡らされていた。ピンと張った糸を指で切る。切れた瞬間、蜘蛛の糸が振動で揺れる。蜘蛛は大急ぎで寄ってくる。餌を捉えたと思ったのだろう。

 太陽が真上に昇る。分校の屋根に上った上級生が先生に怒られていた。山の上まで友人と競争をする。頂上から眺めた景色は、山に茂った木々ばかりだった。鉄塔が連なってたてられていた。電線が青い空に五線譜を貼っているようだった。雀が電線の上に乗っている。指で電線を切れば、雀たちは飛び去っていくだろう。山の向こうか、それとも街の方へか。

 ツバメの巣が分校の屋根に作られていた。バジュラールだっただろうか、ミシュレだっただろうか。ツバメの巣は唾液とガラクタで出来た極めて汚い家だ、と書いていた。崩れそうな分校の扉を開く。床が抜けている。カビ臭いにおいがする。誰かが遊んだ場所には見えなかった。唾液とガラクタで出来た建物のように思えた。

 生まれてからずっとこの場所で生きていくものだと信じていた。高校を卒業すると、大学でいわき市へ行った。大学を卒業すると上京した。初めて帰省した時、国道四号線を北上した。北へ向かえば若返るものだと思って。夜中、玄関口で祖母が出迎えた。彼女はどちらさまで、と尋ねた。孫であることを証明するため、フルネームを祖母に伝えた。

 卒業式、雪はまだ積もっている。同級生と一緒に新潟まで出かけた。トンネルをいくつも越えて、何曲もヒット曲を流した。国道一一三号線を西へ向かい続けた。みんな大人になろうとしていた。誰よりも早く大人になろうと必死だった。
 大声で歌を歌いながら、それぞれがそれぞれの道を進むことを躊躇っているのが分かる。仕事に就くもの、専門学校へ通うもの、大学へ行くもの。アクセルを踏み込むたびに、いつも一緒にいた友人たちは散り散りになっていく。国道一一三号線の西端、テトラポットに座って夕日を見ていた。一人が足を踏み外して、海に落ちた。彼は、テトラポットから這い出してきた。最悪だ、と言った。誰に向けたのか分からない。
 海辺を後にして吉野家でご飯を食べた。

 去年初めて海外へ行った。飛行機が飛び立ち、雲の上を走る。流れていく景色を見下ろす。街は小さな光だった。身近で見るとあれほど大きな光も、空の上からでは小さな点に過ぎない。
 
 飛んで行った蜘蛛が戻ってくることはあるのだろうか。しゃけが故郷に戻る様に、蜘蛛も戻ることはあるのだろうか。もし戻ってくるのだったら、どれくらいの確率で戻ってくるのだろう。散り散りになった蜘蛛の子供が、再び顔をあわせることはないだろう。降り立ったその場所で再び生き始める。

 福島駅、接続の電車を待っているとき、風が吹いた。湿った冷たい風だった。もう、お前など知りはしない、帰ってくるんじゃない、と言っているようだった。福島駅から電車に乗り吾妻連峰を越える。国道十三号線と並行するようにして電車は走っている。見慣れたはずだった景色は遠かった。かつての大都市は、今にも廃れてしまいそうな街に見えた。老人たちが畑で仕事をしていた。子供がランドセルを背負って道を歩いている。
 空には飛行機雲が見えた。晩秋の小春日和、もしかしたら蜘蛛の糸は目の前に降り注いでいたかもしれない。

 それから三日後、東京へ帰った。メールが届いた。母親からだった。昨日の夜から大雪だ、とメールには書いていた。風邪をひかないように、と。
 山形が大雪の日、東京は晴れている。乾いた風が強く吹く。空には雲一つない。
 


散文(批評随筆小説等) 雪迎え(2) Copyright ブライアン 2013-02-07 21:43:33
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