静かに、なるべく静かに(アスパラガスさん讃1)
渡邉建志


ぼくはスケートリンクにとじ込められた
きみの日なた
日なただよ



          アスパラガス「スケートリンク」より







詩人の書く言葉は
―いま僕は言葉と書こうとして、声と書いた。
それはいつも声で、とても浮遊していた。
いまでも、密やかに音楽が流れている。
この世界と言う箱ではない別の箱で。

もとより、ふたを開けると鳴りはじめるオルゴールの箱に閉じ込められて、
暗いなかで古い無声映画を見ていたのかもしれない。

一説には、オルゴールの歴史は1814年スイスに始まる。
映画はそれから81年後、1895年フランスに産まれる。
それからシリンダは回り続けているし、フィルムも回り続けている。
同じリズムを刻みながら。
いまでも。

手に汗を握って映画を見ていても、僕らが箱から出てきて興奮しながら話すとき、
それぞれが違う夢を見ていたのに、それに気づいていないということがあったのではないだろうか。
詩を書くとき、詩人は、たとえばとても古い映画館を持っていて、
そこで見てきた夢を話してくれていたのではないだろうか。

もう詩人によって詩が書かれなくなったとしても、この世界ではないどこかにあるその箱で、
きっとその無声映画は上映され続けている。
後ろではオルゴールやチェンバロの音が鳴り続けているだろう。ずっと。





http://po-m.com/inout/04ito.htm





(まず、詩をすべて読んで頂いて、そして以下に僕が書くだろう文章の存在を忘れて、ウィンドウを閉じてください。)









夕焼けに
染まった木のしたで
モンキーがひとり
たそがれている



突然、のっけから、モンキーが黄昏ているところで詩が始まる。
猿、と呼ばず、モンキー、と呼んでいる。
まじめな顔で詩を読もうと、リンクを開くとモンキーと言う言葉が目に飛び込んでくる。
友人と話していて、詩人がしっとりした雰囲気のなかでふとどっきりするような口語を詩に混ぜるよね、
たとえば、下の「でかい」窓とか、この「モンキー」とか。(借りました)
そうだね、と思う。
モンキーをひとり、と呼んでいるのは、このモンキーはたそがれているからで、
反省だけでなく青春だって猿にもできるのだ。


文は多義的になってきて、繋がりは複数の可能性を孕み始め、
見者としての詩人はそれを整理しようとはしていないかのようだ。




わたしと
かれの
オレンジジュースが揺れるのを
ぱらぱらと指でめくって 見ている
ページのなかの人になり
水分を捨てている ふたり



4、それからたった3で改行されるそのすがたや、リズム、
そのあとに7-5リズムが列なる
そのあとにもうひとつ5-7、そしてまた、スペース、4。
そしてまた7-5、それから5-7(8)とくるかと思ったらそこにスペースがあるので、
「捨てているふたり」と8のリズムになれない。
こう解剖したって、何が見えるわけでもないのかもしれないけれど、
詩人の詩を読んでいると、このスペースの多用と、
放り投げられてしまうリズムないし名詞が
かの浮遊感を生み出しているような気がしてならない。

わたしとかれのオレンジジュース、なのだろうか。
それが揺れるのを見ているのは誰だろうか。
わたしとかれだろうか。モンキーだろうか。それともページのなかの人だろうか(これだ!)。
でも「見ている」が述語でなく「ページのなかの人」にかかる修飾だったら、
「指でめくって」も「ページのなかの人」にかからなくてはならなくなる...
理屈くさく、こんなことをこねこねしても、つぎつぎと映写されていく射影は、
僕のスクリーンでゆがんでいて、元の姿を現す事がない。
僕に見えるのは、そこに「わたし」と「かれ」がいて、
ページを、ぱらぱらめくるとオレンジジュースも一緒に揺れて、
するとページのなかにも人がいて、ふたりは水分を捨てていくのは、
ページが紙で、ぱらぱらしているからだ、と思う。



心中したという気持ちで
生きている
レストランでも
渇いて
モンキーの顔を忘れてしまう



ふたりは「心中したという気持ちで」あるという。
この一節に、おどろくほど死の匂いがしない。
実際、改行して「生きている」のだという。
たぶん、「見ている」のかもしれないページのなかの人は、
心中したのかもしれない。だけど、それを「見ている」のかもしれない
ふたりは、オレンジジュースなんか(見ているようで)見やしないで、
オレンジジュースの向うの心中を見ているが、それは、あくまで、
スクリーンに映った遠い世界に憧れているだけのようであって、
ぱらぱらめくって水分を失ったふたりは、
レストラン「でも」渇いてしまうし、あまつさえモンキーの顔まで忘れてしまう。




だれかが
オレンジの皮を
夕焼けにむかって投げた

青春している



新人物が現れる。
それともオレンジの皮をなげたのは、すでに出た「だれか」なのだろうか。
ここで投げられるのはオレンジの皮なのだけれど、
(僕には)それはバナナの皮の可能的な映像を含みながら、
もちろんそんな平凡なことは書かれていない。
なぜなら、オレンジの皮はモンキーに投げられたのではないし、
モンキーもそれをキャッチしたりしないで、「青春している」のである。
(もちろん、青春しているのは、「だれか」かもしれないけれど。)


歌がはじまる。



なぜレストランは渇いたの
なぜ夏が終わったの
ひとつのレストランと
ひとつの夏と
解けない
ガラス窓



僕の中で、どうしてもリフレインが止まらない。
「なぜレストランは渇いたの
 なぜ夏が終わったの」
の、で繰り返される、この強い訴えかけに対して、
レストランは渇かないよ、という合理的判断はオレンジの皮一つの役にも立たない。

オレンジジュースを飲まないで、レストラン「でも」渇いているのは
「わたし」と「かれ」のはずじゃないか、と合理的判断は言う。
でも、ここで突然歌う人は、レストランが渇いたのだという。
しかもとても強く。
「なぜレストランは渇いたの
 なぜ夏が終わったの」
そう訴えかけられてしまったら、合理的判断なんて全部飛んでしまって、
「なんてこった」と思うほかない(借りました)。
詩人の他の詩に「心底なんてこったと思った」、と友人が言って、
ほんとうに、僕も、こんな駄文など書いていないで黙って、
なんてこったい、と言い続けるほうが、きっと正しい。

でも、レストランは渇いてしまうし、夏は終わってしまう。
でもでも、ガラス窓は「解け」ない。それは、
(それが「溶けない」ではないのは、)
そのなぞ(なぞ)がだと思います。
レストランは渇くのに、ガラス窓は解けない、という
この、固体性、液体性、気体性の、対比。のみならず、その、なぞは、解けていない。

ガラス窓は、ふたりが見ているスクリーンでもある。
(そして、それもいまだ・・・解けていない。)



海がオレンジ色に染まって
ふたりはそっちに見とれていた
心中したというの
このでかい窓の向こうで

向こうで
青春しているの



ふたりは、やはり、心中したという「気持ち」で、
実際心中することはなく、ただ、その時間に止まっている。
映画が、一瞬を垂直に永遠に拡げてしまうように。
このでかい窓の向こう、という、「でかい」は信じられないぐらい美しい。
本当に、この言葉を、「わたし」は言ったのだと思う。
会話そのものだったのだと思う。
心中したふたりは、そこで時をとめて、黄昏のなかで青春を続ける一方、
「渇いた」レストランのなかで(あるいは渇いていない別のレストランで)
「水分を捨てて」いるふたりの時間は、その一瞬はとまっているけれど、
そのあとに普通の生活が待っているだろう。でも、その過ぎ去った一瞬は、
やっぱりふたりの秘密の箱のなかで拡がり続けるのだろう。
そこには、やっぱり死の匂いはせず、濃厚なロマンティシズムがあるばかりだ。

そして最後の四行。



モンキーは 野生
目のまえのオレンジジュースを
飲まずに
いられない




モンキーはガラスの向こうにいて、木の下でたそがれて、青春していたと思うのに、
いまやわたしとかれのオレンジジュースはモンキーの目のまえにあるし、
そのうえ野生だから、青春を忘れてオレンジジュースを飲まずに/いられない。
合理的判断はそう言っておかしいと言うのだけれど、
わけがわからないものが、わけがわからないまま、
現れては消える、それがただ、真偽を糺さずに現されているとすれば、
それ以上に強いものはない。事実こんなに強い詩行を書いた人を他に知らない。


いつものフレージストたる僕ならば、軽々しくモンキーのごとく飛び上がり、

『モンキーは 野生』
って!そのスペースすごい!
『目のまえのオレンジジュースを
飲まずに
いられない』
って!そのリズムやばい!とくに最後の「飲まずに」と「いられない」の間の
改行!!

などとわめいただろうし(実際わめいているけれど)、そういった反応まで含めて、
作者が「ばか」と言ってくれていたならば、と思う。
ばか、はモンキーのみに向けられているのではなく、
(心中への憧れを含め)ここで現された箱の世界全体を、
初めて現れるとおくからの作者が、普通の言葉で、ばか、と呼んだに違いなく、
その秘密の箱にいまも憧れつづけている僕や僕たちも、
ガラスのスクリーンの向うの心中に憧れるふたり同様、
ばか、と呼ばれていたのなら、と思います。


散文(批評随筆小説等) 静かに、なるべく静かに(アスパラガスさん讃1) Copyright 渡邉建志 2012-12-16 00:21:43
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