(批評祭参加作品)観察することば
石川和広

僕は北村太郎という詩人が好きだ。
1922年東京生まれ。下町生まれで、友人の田村隆一と先の大戦の後、「荒地派」という、戦後詩の一時代を画した。
しかし、他の鮎川信夫や田村隆一となにかちがうのは、田村たちも外国文学の翻訳を多数行っている点は同じなのだが、どこか、前の二人がエリートの臭いが強く漂うのに、一風
違う感じがすることだ。
他の二人は詩人として書いていたような気がするのだが、北村は洒落っ気はあるものの、場末のジャズバーの経営者のような、現実を見つめている透徹した目が感じられる。
もちろん、いつも冷静なんではなく、むしろ、とても感情的な人に感じる。例えば「悲しき夢」の一節。


 ひどい夢を五つ以上みて
 そのたびに目ざめ
 舌打ちしてまた眠る
 だるくてふきげんでよろよろ起きる朝 
 歯をみがいて口を漱いで水を吐くと
 泡ができて
 そのたくさん泡のひとつひとつが眼のように
 おれをにらんでいる


そして最後の節を引用する


 交差点の信号の雪の舞うなかの
 赤
 そんな夢をみたいものだよ
 

ここには、感情的になりながら、その自分を「観察」しつつ、生きる、そのいきていることを見つめ続ける激しい情熱を感じる。ただし海軍で彼は敵軍の通信傍受がかりだった事実も、そこに付け加えておかねばなるまい
それは、彼が、妻と子を失ってからの生をどう維持し世を渡る必要から「観察」だろう。
彼は「猫について」というエッセイの終わりに自作を引いている。


  わたくしは「k」という詩で

   われわれはどこから来ないで
   どこへ
   行かないのか
   唯一者としての猫を
   観察しつづけて一生をすごしたほうが
   まだましだ  
   問うよりまえに
   問われるよりは……

 と書いたが、これは変わらぬ信念である。


僕はこの信念を理解できるといえば嘘になる。
別離は僕も何度か体験したことがある。
北村氏とまったくちがう理由で
僕も熱くなりながら「観察」が必要な時期に来ていると考えている。
ただ、ぼーっとしたり、振り回されるだけでなく
当面は、詩を書きながら生きつづけるために

つまり、生きていく必要のための観察…
しばらく、ぼくの呟きにお付き合いくだされば
これ幸甚なり。
 
       *

最近、親との関係をはっきり、させていきたいと考えている。
僕は、それほど自信のある人間ではないから、いや、たとえあったとしても、親に甘えたいという気持ちも、たくさんある。
だから、そんなに立派な考えでもなく、でも、もう親と暮らすのは、なんだかしんどいという気持ちだ。
もちろん、僕は感情的になることが多く、そのことで、精神科から、お薬を、処方されている。医療制度を利用している。
だとして、常に常に、猛り狂っていたり、沈んでいたりするわけではない。
相手のある程度の支援は、必要な時が多い。結局、ある程度の客観性を、相手に求めてしまう場合も多く、また、結局、リアルな話をするためには、ある程度の信頼関係あるいは、距離、つまり、お互いが、お互いの立場を適度に見つめられていれば、あんまり不毛な言い争いにはなり難いというのが、僕の実感だ。

ものすごく普通に困ったときに、人が助けを求めるときに求められる条件についてはなしているようだ。ほとんど、そうだなといってもいい。

しかし、なかなか、それが出来にくいのが、感情つまり、愛情や平静や憎悪が、衣食住という生活の中で、それなりの歴史が出来ていて、親子の経済的社会的な関係の問題が「わしは、お前のことを心配してるのに」とか、子の側も「そう云う話じゃないんだ!俺の人生の話だ」とかいった、ある意味、世に言う「腹を割って話す」ことにはなるが、年老いた親と、いい年している息子の不毛に近い論争の実態だ。

互いが互いの気持ちを、大切に出来ない。気持ちというか、まともな目で、年金暮らしのオヤジのこれからの身の振り方、つまり、生活に必要なこと、金だとか、死に往く存在であること、そして、働くのは、かなり辛い僕の生計やこれからの世の中における関係の作り方、、こう云ったことが歴史的な感情の絡み合いによって、いつまでたっても、話が進まないことが多くなり、この停滞がお互いの感情を更にぐちゃぐちゃにする。お互いの生の条件についての真摯な話ができんくなる。

世に言う。ひきこもりや、障害者の自立、だけでなく、普通の自立をも、厄介にしている普遍的な現象が、そうだ!僕にも来ていると意識するまで、大学でてから、九年たって、
やっと僕にも、実感されてきた。冷静に文章を書いているように見えるが、僕は相応に、この事に目を向けがたかったし、父親も、そうなのかもしれない。
わかんないが、たぶんそうだ。

以前僕は、重度心身障害者施設で働いていた、精神的に葛藤を抱えながらだが、働いた。

そもそも、僕や他の職員が、障害者の自立を勧める前に、僕らが、そのことをどう考えてきたか議論しにくく感じた。しかし、自分が考えることが出来ないままに、障害者の自立なんて偉そうに社会に訴えたり、出来るのか?という持論を持っていた。
しかし、そういうことも、ズルズルに、なっていき、グループホームの雑務にのめり込み、
その頃、一緒に暮らしていた女の子との関係も、どうして良い川からなくなりかけて往くとき、強迫神経症が来た。ウツ状態とも云われた。
しかも、その当時の彼女に連れていってもらった病院で、休職するなら、いつでも診断書を書きますよと云われても、仕事を続けて、そのうち辞めるしかないと思いつめ始めるほど、そして、なんの見込みもないまま辞めてしまうほど、なんもわかってなかった。自分の状態を。

今考えると自分の状態を、そしてあり方を、見つめることがたぶん、自分の感情や正体不明な変化と付き合う、最大の方法であると感じつつある。
以前、「うつ依存症の女」という本の紹介されている本に「中間の平静さ」という言葉があったのを、よく覚えている。
これは、実は、危機をしのいで行く処方に求められる、精神論ではない事実の感覚を失わないための言葉なのではなかろうか。

日本に「世間」という言葉があり、しかし、詩を書くということは、食えないことであるにもかかわらず、僕は今のところ詩を書いていくのが今の現状だから、そこから「渡世」という、とても当たり前な生活のやり方を、つまり、生きていくのには、金が必要で、それを手に入れるためには今のところ「世間」を相手に様々な関係の網の目について、考えくぐっていかざるをえない。
そういう時、大学の職を辞して、民間の新聞に小説を書き始めた夏目漱石が、生きる困難さの実感として、非常に虚構的な小説「草枕」に、

兎角此の世は住みにくい

と書かせた事情があったのだろうと僕は想像する。
官僚から、商人へ、文を売る商人として歩き始めた漱石。
彼はスィフトなどの英文学に、イギリスに留学し打ちのめされ、しかし漢詩を書き、当時の俳諧の変革者、正岡子規とも友であり、漱石という名自体、俳号である。
漢詩も数多く書いた。
彼は、留学したとき、幻聴や幻覚の症状があったという。彼は実際、異世界との触れ合いの中で、過酷な自己形成の途上にあった。
まさに、自分がミクロになった逆ガリバーとして、しかし、世間に出ていく前に
世間を形成している江戸の戯作者の感覚や、漢詩の伝統つまり、日本の世間を構成する巨大な言語体系を引っさげていた。自己の中心軸を引き裂かれ、西洋文学の、教科書で学んだものとまったく異なる英文学や風にまともに吹きつけられた。
ここで、その異類の文学の間で、自分自身の文学を、懸命にうちたてようとした時、猛烈なアイデンティティーの危機が、彼の育ちかけのひ弱な自己に打撃を与えたことは想像に硬くはない。

彼は、その危機から、なんとか帰環したのか?
なんとも云えないが、異言語を翻訳することは、両言語の、使われ方、つまりそれぞれの国に生きる人々の行き方を観察しながら、置き返ることが必要だ。
この観察が彼を救ったのかもしれないと僕は考える。
なぜか?

僕は以前知的障害の人と、遊びに出る仕事、ガイドヘルプをやっていた。
知的障害者のことを知らない、異世界の人と考える人は多いが、それは、事実、訳がわからなかったりするからだ。単に差別だけ問題と思ってたら、たとえば、知的障害者の親とて、世間のおじさん、おばさんであり、別に障害者について研究しておやになったのではない。だから、彼らの中にも偏見はあるが、僕がその職場で思ったのは、障害者も親も、それぞれ障害という事実を、生まれたときから、手探りで付き合ってきた者達だ。しかし、
それを生きる人と、例えその親であれ、それを育てる側では、共有している部分と明白に
断絶する部分があること。
そして、その間には、親には親の、障害者には障害者の、それぞれの生存、言語の理解のし方に、違いがありながら生活を共有していること。
つまり、そして、その周りを包む世間があり、そこへ、遊びに出るとき、僕はまず、障害者と、僕とで共有しなければならない言語があり、障害者の人が切符の買い方が分かりにくいとき、その分かりにくさの言語と、世に使われる言語の仲立ちをしないと切符は買えない。
ここで必要なのが、世間で使われる言語と、それがわかりがたい人の言語を等価に見て、確実に切符を買うという行動を遂行させること。でないと、目的地にはたどり着けない。
もちろん失敗もした。
しかし、その状況に関わりながらも
「観察」を怠ると、非常に不毛な迷宮を歩くだけで、疲れながら、障害者の、行きたいところ、そして僕の仕事という現実にはたどり着けない。
だから、観察するということは、冷たいことでも、単に遠巻きに見ることでもなく、違う世界を、生きていく困難を共にする、あるいは、一人で渡っていくために、とても大切なことで、漱石が精神分裂の危機を何とか逃れたのも、生きていく現実を見失わないために
異言語の生活や、言語を丹念に「観察」するしか、生き延びる術がなく、そして、世間というものがその後に異世界として再び現れたとき

兎角此の世は住みにくい

という故郷が異空間だったという哀切だろうし、そこからの溜息なのに違いない。

僕は、20世紀の二人の観察者に深く
敬意を抱く。
しかし諦念は、僕の土台になりうるか
わからない。
北村と、漱石はまったく違う

漱石は「吾が輩は猫である」といい、
猫を見つめ続けるといったのが北村である.


そして、しかし、そういう営みの中から、
彼らとは違う渡世があるかもしれない。
そこに比較は、あるが、
言葉を扱う人としての、
言葉を未知のものとして扱う僕の、世界を、
築くための「観察」。
素敵なローマ皇帝の言葉を引く。


 「人生はみのり豊かなる穂のごとく刈り入れられる」

* 引用文献
      北村太郎詩集 思潮社1975

      マルクス・アウレリーウス「自省録」岩波書店1956 



散文(批評随筆小説等) (批評祭参加作品)観察することば Copyright 石川和広 2004-12-18 21:01:32
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