嗜好の深み〜「babi-yarの珈琲三昧」
深水遊脚

20130805追記
 表現が少しきついところを直しました。この方の書き方もきついのですが、評価基準がぶれないところは信頼できます。1年以上更新されていません。店舗情報としては古くて利用できないケースもそろそろ出てきそうです。でも、過去ログだけでもとても勉強になります。とくにネルドリップのいれかたの記事が。


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babi-yar の珈琲三昧
http://ameblo.jp/babi-yar/


 このブログは、自分がコーヒーについて深く考えるきっかけになったものです。自分が気に入っていた近所の自家焙煎珈琲の喫茶店の名前をいれてネットで検索したら、唯一辛口評価をしていたのがこのブログでした。そして、受け入れるには時間がかかりましたが、唯一的確な評価をしていたとも思います。

 私は「いい豆は蒸らすとき膨らむ」ということに、いまはちょっと懐疑的です。この逆の「蒸らすとき膨らむ豆はいい豆だ」ということが必ずしもいえないからです。つい半年前までの私は、いつも慣れ親しんでいた近所の自家焙煎珈琲の喫茶店でコーヒー豆を買っていました。よく膨らむところが気に入っていて、間違いなくいい豆だと考えていました。ですからこのブログでそのお店の辛口記事をみたときは、正直、頭にきました(笑)。でも、自分としてもそこに書いてあることに納得せざるを得ない正直な気持ちが隠れていることに、だんだん気づいてきました。ブログの指摘は具体的で、抽出温度の高さと焦げ味・焦げ臭、そしてミルクの質の悪さでした。では抽出温度はどれくらいが良いのか、焦げ味・焦げ臭をもたらすものは何なのか、焙煎という工程で引き出される味の要素は何か、飲むときにミルクや砂糖を足すことは味にどのように作用するのか、これらの一つ一つをあらためて考え直すと、自分にとっての「いい豆」像がけっこうあやふやであることに気づいたのです。できあがったカップのなかのコーヒーではなく、入れる過程でのミルによる粉砕、お湯を注いだときの匂いや膨らみ方のほうを楽しんでいたのではないかと気づきました。

 ブログのなかに「NGワード」という記事があります。珈琲の味は生豆で大部分決まってしまうと、コーヒー豆を焙煎するプロが口にすることを戒めたものです。その記事の後半では客の嗜好を口にする(それを言い訳にする)ことも戒められています。そこでの考え方の核となっている「珈琲が美味いという感覚は経験によってしか作れない」という主張には、半分うなずけるのですが、半分は素直に納得できません。引用部分に全く異存は無いのですが、そこからの論理展開に少々無理があるような気がするのです。珈琲を美味と思ったことのない人に美味と感じさせてこそプロであるとする主張に、いつの間にかスライドしてしまうのですが、そこに至る過程のどこかに飛躍があります。

 「本当に美味しい珈琲は嗜好や経験を問わず誰が飲んでも美味しい」というのは、仮にプロの人が理念としてもつ場合は美しいかもしれません。しかし、美味を求める人間の営みが本来持つ多様性をひとつに限定しようとする傲慢さをはらんだ言葉だとも思うのです。動物としては危険を感じ、本来嫌うはずの苦味や酸味を、誰もが美味と感じるようになる必要はありません。苦味や酸味が美味に転換する瞬間というのは、本当に個人的なものです。同じコーヒーを同じときに飲んだからといって、別の人がその衝撃的な瞬間を感じるとは限らないのです。珈琲店主に唯一できることは、衝撃的瞬間を感じたい、あるいは一度感じた衝撃的瞬間をまた味わいたい、そんな希望にこたえることです。

 ブログの著者は、自身が感じた味を客観的に分析して言葉にする手腕に優れています。味を分析する観点は参考になります。でも、その観点を用いて私なりに珈琲が美味と感じる瞬間、苦味と酸味が美味に転換する瞬間を分析しだすと、深く追求すればするほど違う側面がみえてくるような気がします。100人いれば100通りのこうした味の探究があります。観点も様々でしょう。他人がみてわかるものばかりとは限りません。むしろ大部分はその人の奥深いところに隠れたままです。それが「嗜好」の中味です。「分かる人に分かればいい」と「誰にでもわかる一つの味があるはずだ」は、どちらも「嗜好」の奥深さ、他者のなかに眠る「嗜好」の底知れぬ闇に対して鈍感であるように思うのです。

 私がコーヒースレッドを開始したのは、一度自分についた固定観念をリセットしたかったのが大きな理由です。様々なコーヒー体験を会議室でシェアしてみるのも良いのではないかと考えました。言葉で説明するとそうなります。が、衝動です(笑)コーヒースレッドを開始して以来、いろんなコーヒー豆を挽いて飲んでみています。本当ならコーヒー豆は大量に買い込まず、短い期間で使い切るほうがいいのですが、いま4種類の豆があります。近所の自家焙煎珈琲の喫茶店の豆、少し遠いところにあるコーヒー豆専門店の豆、それとイノダコーヒの看板ブレンド「アラビアの真珠」とスターバックスの「ハウスブレンド」。私が王手メーカーに対して漠然ともっていた嫌悪感は、「膨らまない」ことが原因であり、必ずしも自分が作り出したコーヒーをちゃんと味わった結果ではないというのが今の考えです。だから王手の豆もどんどん試してみたいです。それと対極的な、職人的なロースターに先日出会いました。寡黙な人だとのネットの口コミがあり、豆を買いにいったときもハンドピックの作業の最中でした。あまりに真剣で「おすすめは何ですか?」というような間の抜けた声賭けで邪魔したくはなかったので、説明書きと豆のサンプルをもとに選びました。選んだ結果ブレンドを100グラム注文すると、ストックが50グラムほどしかなく、あらたにブレンド豆を作る作業をしてそのなかから残り50グラムをいれてくれました。そのときの豆を配合する手際のよさ、迷いのなさ、正確さは、忘れることができません。都合4種類の豆をそれぞれの分量だけザルにあけ、均等に混ざるようにザルを振っていました。4種類あけ終えた時点ではかりは正確に1ロットである600グラムを示していました。おそらくはかりを見ながらではなく、手が覚えている感覚でしょう。

 作り手と受け手が夢中になれるこの飲み物。これからも楽しんで行きたいです。その奥深さを教えてくれたこのブログに感謝しつつ(ちょっと憎まれ口も叩いてしまいましたが)。


おすすめリンク 嗜好の深み〜「babi-yarの珈琲三昧」 Copyright 深水遊脚 2012-06-07 12:17:37
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