萩尾望都私論その1 まえあがき
佐々宝砂

詩評がつらい……詩を書くのもつらい……書く自信、皆無なり。文章の書き方忘れた(笑。つらくて腹こわした。下痢ぴーである。すーぐストレスで下痢しちまうんだ、私は。とはいえ嘆いていてもしかたないんで、慣らし運転的に、文章を書いてみている、いまこの文章がそう。

何を書きたいのか、よくわからなくなっている。
何を読みたいかはよくわかる。
私は自分が読みたいよーなものを書いていいのだろうか。
書いていいのなら、私に書けるなら、書きたい。

最近私が気になる作家は今日泊亜蘭とキャロル・エムシュウィラー、なんちゅー時代錯誤な年寄り同士の組み合わせでありましょうね。キャロル・エムシュウィラーは80歳越えた(可愛い/過激な)おばあちゃん、今日泊亜蘭ときたら90の齢を越えほぼドラキュラと化してなお現役。いま私がそのくらいの年齢だったらいいのに。などと考えるのがばかげた願望だってことはわかっているが、ときどき思う、大好きなもの三昧してみたい、年老いた彼等のように。あと数十年がたったら、私もきっと。

いま現在、私は若い。彼等に較べりゃ間違いなく若い。ちょこざいな青二才の若造、卵の殻をつけたままの下痢ぴーチキンだ。なので、私は、まだまだ働かなくてはならない。金を稼ぐためとというのでなくて、ほら、青臭い理想論だけどよ、詩のために私ができるいくらかの小さな仕事をしなくてはならない。それで私は詩評を書く。書いてきた。詩評はきらいじゃない。好きだ。でも。

***

しばらく前から、詩じゃなくて、小説を書きたいと思っている。数年書いてないので、書けるかどうか自信がないのだけれど。シオドア・スタージョンみたいなの書きたいな、愛の作家と呼ばれ、でもSF作家でしかなかったスタージョン。彼が書こうとしたのは、「われなべにとじぶた」式の、ひとりでは立てない半端者同士が組んでできあがる超人だった。また、「つくるもの」と「つくられるもの」の、宿命的な出逢い(創造)と別離(つくられるものの自立や破棄)だった。このテーマを普通小説で書くのはむずかしい。SFならたやすい。

スタージョンが『人間以上』などで描いたような半端者ゲシュタルトの部品である個人は、本来動的に生き、成長し、老いてゆくものであるはずで、スタージョンもそのことには気付いているから、「シシジイじゃない」で描かれる「つくるもの」と「つくられるもの」の夢のような恋愛は、「つくるもの」の成長とともに崩れ去る。「つくられるもの」が「つくるもの」の期待に応えなかったので、捨てられてしまったのだ。『人間以上』で描かれる半端者ゲシュタルトはその逆で、ゲシュタルトとしては超人的に成長してゆくが、個別の部品はたいした成長を見せない。半端者は半端なまま、ひとりで生きてゆくことはできない。

私は、ここらあたりにスタージョンの限界があるのではないかと見る。

大塚英志が「アトムの命題」「フロルの選択」と呼んだものは、実をいうとかなりスタージョンのテーマと似ている面を持つ。「つくる/つくられる」の相克が即「アトムの命題」につながるのは、説明もいらないくらい明白な話だと思うが、いまの私はそっちの方にはあんまり興味がない(とはいえ大好きなテーマ。ああピュグマリオン)。いま私の興味をとらえているのは「フロルの選択」の方だ。

フロルは、萩尾望都の『11人いる!』の主人公である。私はこのマンガが大好きで、自分の詩「マスターベーション」のなかで、『11人いる!』に出てくる「メニール」という言葉を盗用した。メニールは、男でも女でもないが、成長すれば男にも女にもなりうる。フロルはメニールだ。知らないひとのために説明すれば、「フロルの選択」とは、自分の性別を自分で選択する、という意味。フロルは男に惚れたので、一応は女性になることに決める。

でも、フロルに選択の自由がなかったら?という話も萩尾望都は書いている。「X+Y」のタクトは、不安定な性転換剤の影響を受けて生まれたので、明日の自分の性別がどっちに転ぶかさえわからない。しかもタクトは、感情の表現が普通でない一角獣種という先祖帰りの変わり種だ。タクトには性別選択の余地がない。やじろべえのようにあっち向きこっち向き、そんなタクトがどうしたら特定の誰かと愛を語れる? 萩尾望都はあっさり逃げ道を用意して、女性になりかけてる少年形のタクトと、モリという男のラブストーリーにして綺麗にまとめた。モリはタクトに滅茶苦茶惚れてて、その感情が続いてる限りは、この関係はうまくいくだろう。タクトがどういう状態にあっても、モリはタクトが好きなのだ。モリの気持は私によくわかる。私もタクトが好きだ。タクトが男だろうと、女だろうと。

フロルの場合は、変化する側が、変化しない側の都合にあわせた。
タクトの場合は、変化しない側が、変化する側の都合にあわせた。

萩尾望都はスタージョンの半歩先を歩いている、でもあくまで半歩だ。変化し続ける、かつ個人としても自律した者同士で、スタージョン的なゲシュタルトをつくることは可能だろうか?

「このひと」と「わたし」はお互いのために生まれた、それは宿命だ。もしかしたら、「このひと」と「あのひと」と「わたし」の三人がゲシュタルトをつくるかもしれない、数とか性別とかはどうでもいい。なんなら生物としての種類さえ違っていてもいいし、ロボットでもいい。そして、「このひと」も、「わたし」も、もしかしたら「あの何か」も、動的に変化し続け、成長し、しかし決して完璧な成熟には到らない、というのも、「わたし」たちは常に変化し続けるのだから。

という話を書いたら、スタージョンの一歩先、萩尾望都の半歩先にゆける気がするんだけど、書ける気がしねーなー(笑

なにしろドが百個くらいつきそうなスランプなんだもんね。私。


散文(批評随筆小説等) 萩尾望都私論その1 まえあがき Copyright 佐々宝砂 2004-11-28 20:50:42
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