m.qyi


 「どれもすべてたったひとつの生」というhorouさんの散文を読んだ。この人の書き方は、散文と詩の差が非常に少ないように僕には感じられる。その意味では僕は詩として読ませて頂いたと言ってもいいかもしれない。その(横書きで言うのも何だが)くだりに、「生命の尊さを本気で語るなら、無為に死んで見せるのが一番だ、そう思う。街路に散乱した投身自殺死体がそこに立ち止まるものに思わせるもののことを考えて みればいい。そこには最も自覚的な生というやつがあるだろう。長く息を吐いてみる。身体の中が空になるくらい、執拗に、長く。そうすると、ほんの一瞬だけ 生身の肉体は死体の気分になる。デス。」とあった。
 言葉の端端からその手の言葉が出てい来るのでその手の話だということは僕にも分かる。「人間らしさというプログラムに踊らされる機械になどなりたくはない。」人間と言うのは、椅子なんかとは違うんだなんてお話を僕も聞いたことがある。こんな倫理的なお話をするhorouさんが「倫理や常識、理性や道義だけでは測りきれないものが人間の本質さ。」なんて言って、面白い。ここでいう理性というのは、ロマン派のとは違う、経世で謂う所の利益計算が出来る合理的なロールプレヤー、俗に言う消費者、コンビニに通う僕らの事なんだろう。コンビニなんてこのお話にぴったりの言葉だ。
 僕はこんな話を昔は毛嫌いした方だった。こんな話し様は人間を一つの言葉でくくってしまい、悟ってしまうから。所謂る、クールなニヒリストで、半ズボン穿いた僕には似合わない。悟ってしまうというのは、実は、「愛がない」人でなしだと僕は思ったんだと思う。
 この逆に「倫理や常識、理性や道義」と言われたものはhorouさんの言葉よりもう少し違った性質を持っている(ご当人も知った上で使っていらっしゃるのかもしれないが)。生成しないでもないが、ちょっと保存が利く面があり、大きく言えば社会・文化のことだ。例えば、言葉もその内に入る。実は「愛」なんていうのも多分に文化的なものだ。愛の本質は一人でないことだから。1+1=2+αというのが愛の計算方法で、子供が生まれるとか生産性が上がるとか言うこともできるが、経世で謂う所の利益計算が出来る合理的なロールプレヤーで「測りきれないもの」がαで、実は「測りきれないもの=人間の本質さが倫理や常識、理性や道義なのさ。」というのも兄弟仁義、ラブ・ストーリーだ。でも、それがヤクザ映画であり、不倫であり、平和を求める戦争であったりするのが世の常だから、こんなことをのうのうと言うのは偽善者に違いなく、悪い奴が多い。でも、「愛」というものがニヒリストの側よりもパシィフィストの側により近くある、ニヒリストの側にあるように誤解している人がいると僕は思うのである。しかし、僕はその「愛」を飲み込めるほど、心が強くはない。僕がしたいのはちょこっと旦那さんに黙って奥さんとエッチしたいなあ、洗濯物干すお手伝いしたいなあってくらい、ささやかな、まろやかな、らぶだ。そして、旦那にピストルで撃たれて死にたい。
 そんなどっちつかずの僕だったけれど、ちょっとニヒリストっぽくなってきた節がある。
「死、と再生。懐かしいフレーズだ。どちらかが良くてどちらかが悪いとか、対極にあるものだとか、寝惚けたことを行ってられる歳じゃないさ、」とhorouさんがいうが、僕は、全然成長しないガキでも、寿命はある。それと共に、僕の持てる愛、僕のできることには限りがある。それにしても、このαがどんどん小さくなる傾向を今の社会は持っている。この傾向の所在こそを考えなくてはならないというのは正論だが、正直に言って、僕のようなション便垂れには耐えられない。僕が生まれた所では、これを文化伝統真心で覆ってしまう嫌いがあるので僕にはそれも息苦しい。
 僕の住んでるところには一応子供は一人しか生まれない。つまり、年寄りが多いわけだろう。ところが団地の母親や阿姨(子守の叔母さん)さんたちを見ると見かけない顔を毎週見かける。もうそろそろだなっていう、セレブの奥様もいっらしゃる。ということは、団地の中にはその数以上のものがいる訳だろう。ここではそれらはどう処理されるのだろう。とてもキカイ(機械)だ。
 そして、僕の生まれた国でも、事情は同じだ。所謂るブンカ(分化と書くのかしら)的なだけで。戦争でぶち殺されるなら、お話の種にもなるし、親族縁者周りの他人でさえも何かは思うだろう。石ころが落ちているとは思わない。
ところが、そこでは、白いシーツの上で俺まだ生きてるよなって思っている。
 物が死ねないのは言うまでもない。つまり、「無為に死んで見せれば死体の気分が分かる」と言われる社会だ。その社会批判はよくある。
 実は先日も「自分が死んだのも知らずに、40キロの速度で走る車で自分の死体を通り過ぎていく幽霊」の話を読んだ。構成のよく出来た話だった。しかし、僕が何よりも面白かったのは幽霊よりも「40キロの速度で走る車」の方だ。いかにもサスペンションの効いて乗り心地の良い高級車で、不思議な感じはするが、全然恐くないと感じている自分の方がお化けなのだ。
 こんな御託はもう言い尽くされている。しかし、それを自分の言葉で一人抗って語ろうとするhorouさんの散文はしばらく心の内から消えなかった。


散文(批評随筆小説等)Copyright m.qyi 2011-12-02 15:08:15
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