ただしさと真実に関する考察と覚書
はるな

物事が真実である必要はない。
あるとききゅうに、自分について大事な物事に気付くことがある。
それがきょうはそのことだった。物事はただしくあるべきだと思う。少なくともわたし自身は物事にたいしてただしくありたいし、物事もわたしにたいしてただしくあってほしい。ただしその「ただしさ」は「真実」ではないのだ。

わたしはいま考えるべき大きな問題をいくつか持っている。それは時間に関することと、接続に関することだ。接続は、つまりコミュニケーションと言ってもいいかもしれない。(でもこの呼び方はあまり好きではない)。そしていまは、ただしさに関しても、与えられた命題として考えなければならないと思っている。

考える、ということも、ただしさの重要な要素だと思っている。ただしさというのは、「真実」よりもたぶんずっと定義しやすい。わたしは、わたしのただしさをあなたたちに課そうとは思わない。それと同時に、あなたたちの「ただしさ」を背負う気持ちもさらさらない。しかしそこに大きな溝があるならば、わたしはそれについて考えなければならないと思う。それがわたしのあなたたちに対するただしさであり、また、わたし自身に対するただしさでもある。
わたしは、わたしの考える「ただしさ」が、ときには拒否されることも知らなければならない。物事は真実を要求するかもしれない。あるいは真実でもなく、ただしさでもないものを求められるだろう。生活していると、そんなふうな局面はいやになるくらいある。わたしは差し出すだろう。わたしの「ただしさ」とも、物事の「真実」とも違うものを、わたしは差し出すだろう。
しかしときにそれは物事に対するただしさになり、わたしに対する真実になるかもしれない。優しさのない正しさと、価値のない真実。

さてでは「ただしさ」および「真実」がいったい何物であるかを語る必要がある。しかしわたしにはそれが難しい。わたしがあなたたちにわたしのただしさを強要しない理由も、そこにあると言えるだろう。ただしさを説明するのはひどく困難だ。たぶんそれは、ただしさが感覚的なものであるからだと思う。それではただしさとは好き嫌いなのかと言われれば、それは違う。いくら魅力的に見えても正しくない道もあるし、どんなに進みたくない泥沼でもそこを行くのが正しさだというときもあるのだ。ただしさはただしさとしか言いようがない。それは経験や、知識に裏打ちされるものかもしれない。あるいは予感とか、まさに好みとかそういうものの内にしか現れないものかもしれない。わたしがそれを「ただしいと信じている」だけかもしれない。
どの口が言う「真実」も「ただしさ」も「信じるしかないもの」なのだろうか?

たぶんそうじゃない。そうじゃないと思う。
信じるしかないなどという、あやふやなものではない。ただしさは死のようにどの花の蕾にもたしかに宿っていて、雨の日に静かに流れ出して川へ出て、そして最後には海のような、母体ともいうべきものをつくる、そういうものだ。わたしたちは花が生む朝露の一粒が海へ帰る一生をこの目で実際に見たことはないけれど、そういう風に水分がまわりまわって海を成していることを知っている。たぶん海そのものが「ただしさ」で、水の行く末が「真実」なのだ。


わたしはあなたたちに対して、常に、出来る限りただしくいたいとは思うけれど、あなたたちにそうして欲しいとは思わない。もちろんあなたが、わたしに対してただしくありたいと思っているのであれば、それはほんとうに嬉しいことだけど、そうでないからといってわたしはあなたたちにただしくあるのをやめようとは思わない。また、わたしはただしさのもとに自分の行動を正当化したいのでもない。ただしくあるが故に、何かを壊すのであれば、それはただしさとはまた別の何かだ。

わたしは、きっと、あなたたちすべてを愛したいと思った。そしてそれが無理なことではないとも思った。出来ると思った。そのためにはただしくいようと思った。真実であろうと思った。だけれど、真実であることは、誰かにとっては残酷なことなのだ。愛も真実であれば、残酷さも真実であるし、またそれが別の局面では怠惰と言うべきものにもなる。あらゆる意味は両極を孕んで存在している。わたしは信じるよりも、もっと、考えていたいのだ。海をつくるその水の一滴について、知りたいのだ。考えていたいと思った。愛するためにはそれが必要だと思った。そうして、何かをほんとうに考えるとき、わたしはそのものにただしく向いていなければならないことを知ったのだ。



散文(批評随筆小説等) ただしさと真実に関する考察と覚書 Copyright はるな 2011-11-21 00:20:24
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