歌謡曲日和 -あさき 赤い鈴-
只野亜峰

 さて、一日ぶりの歌謡曲日和となります今日この頃ですが皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕と言えばOSをクリーンインストールするついでに7にするからついでにパーティッション分割を元に戻そうなんて余計な事を考え付いたのが発端となってデータ退避する場所を勘違いしたまま多くのテキストデータを失い、面白画像を失いでとてもアンニュイな気分の毎日であります。さてさて、今回の歌謡曲日和はちょっと前回までとは趣向を変えて『あさき』という知る人ぞ知る感じの若干オタッキーな感じのアーティストを紹介していこうかななんて思ったりもするのですが、なにぶん信奉者の多い方ですので往年のファンの方々の心情を逆撫でしないように戦々恐々たる思いでキーボードを叩いていこうかなんて思います。
 僕があさきというアーティストに興味を持ったのはゲームセンターに通いつめるような熱心な音ゲーマーの人達からすとずいぶん遅いもので、ちょうど何年か前にjubeatというキューブ型の箱々しい形をしたアーケードゲームが登場した頃の事で、わりとミーハーな僕はホイホイと釣られてポコポコとjubeatを叩いて遊んでいたわけですが、その中で印象に残ったのが『凛として咲く花の如く』という曲であったりしたわけです。当時あさきという固有名詞は知っていても「コナミの音ゲーシリーズにビジュアル系っぽい人がいる」ぐらいにしか認識してなかった僕にとっては、ですから華やかな感じの凛として咲く花の如くの作詞があさきであると知ったときはわりと驚いたりもしたものでした。
 興味を持つと見え方も変ってくるもので、古臭いビジュアル系にしか聞こえていなかった具体的に言うと『この子の七つのお祝いに』であるとか『月光蝶』であるとかがなかなかどうして魅力的に聞こえてくるものですから人の耳というのは実にいいかげんなものです。まぁ、基本的に音楽的にはヴィジュアル系のそれなので全く間違いではないのですけれどね。
 僕の勝手なイメージですけれど、ヴィジュアル系の歌詞というのは物凄く刺激的にできていると思うのですよね。それこそカチ盛りの山葵の上に七味唐辛子ふんだんに盛り付けてあるような食べ物というよりは劇薬のそれに近い。厨二病なんて揶揄されるのがぴったりの難語と暴力的な攻撃性で取り繕った新宿のギャル男みたいな得体の知れない不気味さがあって、刺激を求めるタイプのうら若き乙女の人達にはそういう危なっかしさが魅力的に映るんだろうかなんて思ったりもするわけですが、僕としては自分のメンヘラ全面アピールしてるメンズとかはなかなか興味の範疇外なのでいまいち良さがわからなかったりもするのですが、そんな僕が何故にあさきなんていうアーティストにのめり込んでしまったかと言えばそれは凛として咲く花の如くの一枚絵の女の子が可愛かったからに他ならないわけで、まぁ野郎の脳味噌なんてものはしょせんその程度の単純な構造で成り立っているに過ぎないわけです。
 さてさて暇つぶしにだらだらと書いているせいで話がなかなか地につきませんが、そんなこんなであさきという人の作品を聞き込んでいくうちにすっかり憑かれてしまった僕は難解であると定評のある彼の歌詞の一言一句にまで興味を広げていくハメになるわけです。そうやって段々とあさき節に対する感度を上げて聞き込んでいくと実に彼の曲というのは面白く聞こえてくるのですよね。まぁ、これはギミックに富んだ技巧的な歌詞に楽しさを見出さずにいられない僕の性癖のようなものですから一概に人に薦められるものではないというのがちょっと残念ではありますが。ジャンル的にもなかなかオタッキーですし。
 普段常用しない難語やアクの強い言葉というのは確かに無軌道に羅列させていくだけでも結構カッコいいんですよねこれがまた。でも容易く得られるからこそ簡単に毒にも成り得るわけで、全身ギンギラギンに宝石纏った香水むんむんの中年叔母さんに魅力を感じる人はあまりいないでしょうけれども、僕がビジュアル系的なものが好きじゃない理由にはそういう過剰装飾的な部分もあったりするわけです。あさきの歌詞というのも例に漏れず全身小林幸子と言わんばかりの毒々しい言葉で埋め尽くされているのですが、なかなかどうしてそれが綺麗に組みあがっていたりするもので個人的にはなかなか魅力な書き手であるなと思ったりもするわけです。
 さてさて、そんなあさきの数ある曲の中でも赤い鈴という曲は結構異端児である印象があります。まぁ、正直なところギタドラのドラム赤とか最後までプレイできた事があんまり無いんですが、薄暗かったり禍々しかったりする曲が多いあさき作品の中では数少ない軽快さを兼ね備えた楽曲であるような気がします。まぁ、歌詞は結局暗いんですけどね。赤い鈴が何を表すのかという考察をされてるサイトなんかだと彼女の首吊り腐乱死体であるなんていう怖い解釈が結構あって、皆良い感じに病んでるので見てて面白かったりもするんですが、今回はあえてそんな流れに反逆して面白解釈でもしていきたいと思いますが、敬虔なるあさき信奉者の方々はかような読み方もあるのかと思って頂ければこれ幸いでございます。

 長い前フリでしたがようやく本題に入れますね。本題というのは幸せなものです。『赤い鈴』作中で繰り返し語られる『鈴の音』もきっとそんな幸せを象徴する音色であったのかもしれません。錆色というものが赤みを帯びた茶色で表現されるように、錆というものはわりかし赤みを帯びた色として存在していたりします。かつては幸せを奏でていた小さな鈴。赤く錆び付いてしまった鈴はもう美しい音色を奏でる事は無い。今回はそんな世知辛い話をお届けします。
 あさきの作品には野口雨情のテイストが結構詰まっていて、例えば月光蝶の『シャボン玉』というフレーズは雨情作品の中でもあまりにも有名なあの歌を思い浮かべさせますし、『この子の七つのお祝いに』は『七つの子』が思い浮かんだりは……あんまりしないですが、『赤い鈴』というタイトルで思い浮かぶ雨情の作品と言えばやはり『赤い靴』だったりするわけです。異人さんに連れられて行ってしまった少女の事を歌った童謡ですね。考えてみれば赤い鈴のビデオクリップで主人公であるスネオヘアーな少年の手を引いているジェントルマンの図はどことなく異人さんに連れて行かれてしまった少女を連想させます。

赤い靴(くつ) はいてた 女の子
異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった

横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった

今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう

赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢(あ)うたび 考える

 詩の解釈にまつわる議論なんてものは今も昔もあるようで、雨情の『赤い靴』も特定の個人をモデルとした作品であるという解釈が真しやかに語られ、一時期はその解釈が定説にまでのぼりつめたようですが、その後に『定説』に対する批判が起きたり、雨情の親族から実在のモデルはいないという主張がされたり、いやこの詩は社会主義的ユートピア運動の挫折と解するべきだなんていうトンデモ理論まで出てきてすぎやまこういちが憤慨したりとなかなか落ち着かない周辺事情があったりするわけですが、雨情の没後に発見された草稿にこんな続きがあったなんていう逸話もあったりしますね。

  生まれた 日本が 恋しくば
青い海眺めて ゐるんだらう(いるんだろう)
異人さんに たのんで 帰って来(こ)

 素直に読めば少年視点での少女との別れを描いたこの詩は過不足なく少年の心情を描ききってる作品で、少女が異人さんに連れられていってしまった理由に対する言及も無いですし、少女が去ってしまった現実と少女も異人さんのような青い目になってしまったんだろうかという子供らしい想像が粛々と描かれていますね。しかしながら五番の詩をここに当てはめるとずいぶんと印象が変わります。
 『青い目になっちゃって』という描写はもちろん現実にそんな事はありえないのですが、例えばそれが文化的な価値観であったりとかに読み替えると異国というのは現在よりも当時は隔たりのあった場所でしょうから、日本の事を忘れて知らない異国の地でその国の女の子として生きているのだろうかという少年らしい言葉での寂しさの片鱗を垣間見る事もできるのですが、五番では『故郷が恋しいのだろうから異人さんに頼んで帰っておいで』という呼びかけに発展してるわけです。この草稿の五番部分は『幻の五番』なんていう風に読者の中で愛されたり愛されなかったりしていますが、肝心の草稿が雨情の没後に発見されているものですから、どういった理由で世に出なかったのかというのは雨情のみぞ知るといったところでしょうか。
 しかしながらこの草稿は雨情自ら没にしたんじゃないかとも思えます。第一に色の対比がありますね。『赤い靴』をはいていた日本に住んでいた女の子が異国に行き『青い目』になってしまったという構図の中で『赤』と『青』が上手く作用しているのですが、ここで日本と異国の間にある海を『青』と表現してしまう事によってこの対比が曖昧になってしまうのですよね。なにより五番を書くことによって少年の心情を描いていたはずの作品が少女への呼びかけへと意義を変えてしまう事を雨情は恐れたのではないでしょうか。四番目までであえて筆を止めることによって特異な意義を持たせる事なく少年の心情を描ききる事に徹底したからこそ五番の詩は世に出る事無く姿を消したのかもしれません。
 けれども五番が全くの没であるかと言うとそんな事はなく、この五番が幻と消えたからこそ見えてくる『赤い靴』の姿というのもあったりします。当然ながら三番で歌われる少女の姿と五番で歌われる少女の姿というのは相反するものですね。三番では『青い目になって』つまり日本の事など忘れて異国の一員としてすっかり定着している少女の姿が想われていますが、五番では生まれた日本を恋しさに海を眺める少女の姿が描かれています。ああ、そうか。だからこそ『青い目』という描かれ方をされてる可能性もあるのかもしれませんね。異国に定着して異人さんの一人になってしまったから『青い目』になってしまった少女と、日本恋しさに眺めた海の青が瞳に映りこんでいる少女という二つの相反する少女の姿が少年の中にあるわけです。これはもうシュレディンガーの猫ちゃんよろしく日本に留まっている少年には確かめようの無い事なわけですが、この相反する少女の姿こそがこの作品の肝と言ってもいいかもしれません。
 生まれた日本恋しさに海を眺める少女の姿に描かれる『生まれた日本』という言葉の中には無意識に少年自身の事も内包されているのかもしれません。つまり五番で描かれている少年の心情というのは物凄く噛み砕いて纏めると『外国にいてもつまらないだろうし異人さんに頼んで帰ってきてまた遊ぼうよ!』という物凄い楽観的な感性と、それが容易に叶わない事を子供ながらに感じ取っているアンニュイな子供心という事になるわけですね。
 しかしながら、この五番の存在があるからこそ三番の詩というのは深みを増していくわけです。五番で描かれる少女の姿というのはある意味、少年の中でこうあって欲しい少女像であるわけですね。少女のいなくなってしまった風景に寂しさを覚えている少年と同様に、少女もまた日本を恋しく思って寂しがっているはずであるという風に。
 そう思いながらも少年は『青い目になっちゃた少女』の存在、つまり少年も含めた日本の事など忘れて異国の一員として何事も無かったかのように日々を過ごしている少女の姿というものも同時に予感しているわけですね。けれど、これは五番で歌われている少年の淡い期待を裏切る姿でもあるわけです。結局五番まで描かれる事は無かったわけですけれども、詩の先に五番の歌詞を見通すと少年の心情というものが少し深みを増していくように思います。もっとも、それを描ききってしまえば今度は生々しい葛藤が強調され過ぎてしまって童謡には似つかわしくなくなってしまいますし、結局のところ幻の五番は幻であるからこそ意義を成していくのかもしれません。

 さて、そろそろ閑話休題といきましょう。一体全体何故にあさきがこの『赤い靴』をモチーフにして『赤い鈴』という物語を書き上げたのか。そこにはやはり原題の『赤い靴』では濁された生々しい葛藤に対するアプローチがあったのではないかと思うわけです。つまり、自分の元に帰ってくる筈だという期待と自分の知らない場所で何事も無かったかのように過ごしているのではないかという失望の葛藤に対するアプローチですね。男女の関係というものはこの辺りを描くのに際して実に生々しく作用してくれるものですからあさきの目論見はそういった意味でも面白く思います。
 異人さんに連れ去られてしまった青年を想い、少女は葛藤するわけですね。『私のことが愛しいのであれば彼は帰ってくる筈だ!』と。その嗚咽は『本当は私が必要ではなくなったのかもしれない』という失望が増すほどに、それをかき消すように強くなっていくわけです。
 『赤い鈴』の主人公とヒロインというのを世間一般的な追って追われてという関係に当てはめるとしっくりくるわけですね。追いかれられる彼女を追う彼という狩猟本能万歳な関係性。たぶん彼も男の子ですから追うのは好きでしょうし、彼女は彼女で彼に飽きられないために刺激的であろうとした部分もあったんじゃないかなんて思ったりもするわけですが、野郎のメンタルなんていうのは女性のそれと違って紙よりも薄っぺらいので強い刺激に長期間耐えられるようにはできていなかったりするわけですね。こうなってしまった場合に野郎という生き物がどうなってしまうかと言うと、それでもしばらくは手放したくないもんですから彼女の事を追いかけるわけですね。けれども喩えるならそれはゴールの見えないフルマラソンをさせられてるようなもんですからいずれ破綻してしまうわけです。どんなに屈強な石橋だって叩き続ければいずれ壊れてしまいますね。
 それが『僕は本当は必要とされていないのではないだろうか』という迷妄になり、吐き気さえ覚える能面のような笑顔になったりするわけですね。でも彼女はそれでもキャッキャウフフの追いかけっこを楽しんでいるつもりなので、彼の葛藤など知るわけもないわけです。だから自分に向けられる笑顔に安堵してどんどん先へと行ってしまう。もう追いかける気力を失ってしまった彼はそこで心底萎えてしまったわけですね。彼の目には彼女の背中に自分を取って食おうとする化物が見えていたかもしれませんし、一人で気ままに生きていく人生というのがいくらかマシに見えたのかもしれません。彼の恋は一度ここで大きな転換を迎えます。俗に言うところの「距離を取る」という奴で、自然消滅一歩手前の破局リーチといってもいい感じの試みだったのですが、彼にとってはクールタイムでもあり賭けでもあったわけです。そこで彼女が自分を追いかけてきたなら万々歳。よしんば追いかけてこなくても時間を置きさえすれば持ち直せるという冷静なんだかリスキーなんだか混乱しているんだかよくわからない迷走で、野郎というのはつくづくお馬鹿な生き物であるというのは今更語るほどでもないのですが、彼女にとっては何が起きてるかさっぱりわからないわけです。
 昨日まで仲むつまじく追いかけっこをしていた相手が今日になって突然止めると言い出したという事件は、彼女にとっては冗談のようにも聞こえたでしょうし、そうでないのならきっと自分とは関係の無い特別な一時的な事情があるのだろうと思ったのかもしれません。なにしろこの時点で彼女の中の鬼ごっこは終わってないわけですね。「鬼さんこちら手のなるほうへ」と彼を引き寄せていた彼女の恋は依然として幸せの音色を奏でているわけです。彼の心が離れていくのを見えないふりをしながらという形になるわけですけれども。
 とろころが鈍さに定評のある彼女もいい加減自分が捨てられた事を悟るわけですね。けれどもそれを認めようとはしない。彼はそんな彼女の姿を遠巻きに見ながらも距離を置き続けるわけです。彼にとっては二人の関係を継続する上で必要な通過儀礼としての冷却期間だったのでしょうけども、彼女にとっては違ったわけです。わけもわからずある日突然捨てられた彼女の心もまた疲弊に疲弊を重ね、「彼はきっと自分の元に帰ってくる」という幻想を保てなくなるほどに磨耗してある日突然擦り切れてしまうわけですね。そんな彼女の近況など知らない彼は「そろそろ良いだろう!」みたいな感じでのこのこ彼女の元へ戻っていくわけです。ところがどっこいそこで彼が目にしたものは……!

 これが大まかな『赤い鈴』の物語であるのかと思います。抜けた言い方で収めるのであれば「男女のすれ違い」がテーマであると言いましょうか、男女は分かり合えないんだからちゃんと話し合いましょうね的な教訓と言いましょうか、ままならないのが男女であり男女の面白さでもあるわけで何とも言えない感じであります。
 非常に穿った見方をするならば、彼女の部屋に駆けつけた彼の聞いた「鈴の音」というのは、ともすれば彼との関係に終止符を打った彼女が迎えた新しい男との営みで生まれた嬌声である。なんていう見方もできるわけですが、あんまりに生々しいのでやっぱり首吊り死体で良い気がしてきました。まったくもって世の中ネトラレばかりで困ったもんです。あさきよあなたもか。

 そんなこんなで後半だれてきたのでちょっと走り気味に纏めてしまいましたが需要があったらどうしてこう読み取れるのかみたいな事もやってみようかと思いますが需要なんて無いので安心して酔っ払って寝ることができます。幸せ。
 それではこれにて閉幕といきます。そろそろ朝日が昇りそうなマジで学校の怪談タイムになる10分前の酔いどれ空間より私、只野亜峰がお届けしました。たまにはゲームセンターで汗かきながら音ゲーに興ずるのも悪くないかもしれませんね。それではまたいずれどこかの街角で。


散文(批評随筆小説等) 歌謡曲日和 -あさき 赤い鈴- Copyright 只野亜峰 2011-11-20 04:44:03
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