ぼやけ、ぼやけ、ぼやけ。。。。。僕の今の批評観
石川和広

ぼやき。
ぼやき。
みんなで復唱しましょう。
なぜか?

要は、というか要することはできないがとりあえず
ぼやきを「批評」という言葉に置きかえると、批評の楽しさとつまらなさの判定は
かなり可能である。
日常、ぼくは、例えば、ぼやいている。
介護保険料が20歳から支払いになりそうだ。
いやだなあ、で、終わる人は終わる。
新聞に投稿して、制度的な正論の中に意見として収める人もいる
飲み屋で愚痴る。
もう60になる親父に、うらやましいなあというと喧嘩になる
ここまでは、かつて床屋政談と呼ばれていた。
ここまでは、日常文脈に回収される、ここから、議論を始めれば
もしかしたら、立派な政治批評になる可能性もある。

詩のことじゃないのか?と問われそうだが、日常会話の変な
そして、テキト−な、そして以外に独断と偏見を引きずりながらも
妙なフレーズが気になるときがある。
例えば
うちの親父が「投票は義務だ」
と言った瞬間
とりたてて無党派ではないが、様々な政党に幻滅している僕は

「しかし待てよ」と思うときもある。
気分のむらもあるけどね、流石に
「投票は義務よりも先に権利だよなあ」
なーんて思ったら、なんかむらむらするのだが、
なんか、そこで、現代思想や、情況みたいな論文をみることはあれ
書くと違うことになる気がする

親父のフレーズへの違和感をひつこく大事にするには
街頭演説みたいなうざい景物になるのは、言葉を使うのにむなしーのよ

では、どーするか?
言葉への感覚の原風景は、この場合親父との会話だ。
もう、なんか感情的な、論証を欠いた、珍問答である。
しかし、珍問答しか、多分ひとは、できにくい。
そこにも、その人の本質は露出するので、むしろ、そこを
借りてきた猫みたいな正義より大切にしたいところだ。
すると、プラトンのソクラテス対話さえ、哲学めいたしつこい男同士の
珍問答である。
あつまって、なんか、善とか魂なんて、ありがたい論文では到達しにくいから
また、かしこい演説では、波紋を投げられないから、
しつこく自分のひっかかりを精密化させるのだ。

うーん、うざい、ソクラテスは処刑された
彼は確かに、自分のひっかかりの中に、やばい直感を秘めていたし
それが、法や現実に触れることばに、当時の行政当局に感じられたからだ

この際、こんな凄いお方を引っ込めるとしても
作品もまた、はっきりゆうて、どうとでも読めるが、場、時代の制約の中で
しかし
ことばが気になって気になって、なんかそういう病気としか言いようがない
ものが増殖して、こんなのゆってもなあと力がどんどん抜ける
どうせ、オレは言葉の病気だ!と開き直る気力も無くなる



さて
そっから、ぐにゃぐにゃにふやけた日々を通り抜け
空を見て
どんづまり
役に立たなくても金が欲しくても、
もーこれは、ゆうとくしかないだろ、おい!

と、今まで風雪に絶えたり、死にかけたり、腐ったゾンビみたいな
「この言葉いいのはさあ」
「ここのところがまずいねえ」
はい
はい
もう浦島太郎なぼやき
これを、とりあえずというのも、なんだが
いまこのしゅんかんの
ぼくの「批評」というものだ
形は、もう色々ある、しかし、言葉が連なり
やっぱこの作品にはいいたいことがあるぜ!
というか作品いや詩て何?

わからーーん、でもそれは
それが書くことの形だとかんじる
そこから始まるひょこひょこ

批評は、野生のぼやきかもしれない


散文(批評随筆小説等) ぼやけ、ぼやけ、ぼやけ。。。。。僕の今の批評観 Copyright 石川和広 2004-11-21 17:48:35
notebook Home 戻る  過去 未来