孵卵
光井 新

 近頃は、どうにか心身の具合も良好のようで、妻に手を引かれては外へと出掛けたりもしている。
 閉じ籠っていた殻の外へと出れば当然他人と会わない訳にもいかなくなるのだが、今のところは以前のようなパニックを起こしていない。
 しかしまだ、小型犬を散歩させている婦人や、けらを纏った農夫と、すれ違いざまに挨拶をするのが精一杯という状態である。この調子では仕事に復帰するのも、いつになることやら、見通しを立てられず諦めかけている。
 気がつけば、最後に舞台に立った日から、一年が過ぎていた。 二人で行くようになった近所の庭園に向日葵の花を見て以来、日課だった発声練習や基礎体力向上運動はしなくなった。このまま、どうしようもない自分のままでも、妻と二人で生きてさえいられればそれでいいと思えるようになった。過去に自分を走らせていてた青い焦燥はすっかり色褪せ、二人で過ごす時間の流れは早くなり、相対的に、人生をゆっくりと歩いている。
 どうやら、感情が動かなくなってしまったようなのだ。
「飛べないなんて誰も言っていないのに、みんなからそう言われているような気がしてしまって、私達は羽ばたかずにいられなかったのです。神よ、どうか、愚かなこの兄弟に翼をお与えください」などと昔演じた役の台詞が不意に口からこぼれても、心は立ち止まったまま沈黙を続ける。

 葉山での療養を始めてから、仲間とも会っていないし、芝居について語る機会もなく、演技のことなど考えなくなった。そのせいか、はたまた病気のせいなのかもしれないが、男という役割さえも而立前にして演じていない。
 元より、ろくな稼ぎも無く生活は妻の実家からの援助に頼りきりという情けない夫だった。が、いわゆる女泣かせの悪い男でもあり、毎夜やに下がり遊び回っては、毎朝妻にくだらない嘘をついて、自分をごまかすことによってなんとか生きようとしてきた。
 そんな世界、、での暮らしが幻だったかのように、ここではただ生かされている。本物の役者になり上がることもできず、泥棒にでもなりかねなかった嘘つきが、畜生道へと堕ちたのだ。

    *    *    *

「重力という殻を破らねば、私達兄弟は、生まれることなく死んでゆく」

    *    *    *

 昔は、恋に落ちたこともあった。そのひとと結婚して、一緒にいる。だが、もう愛していない。おそらくこれから先も愛することはないだろうと感じている。
 妻の手を離し、そして人混みの中で過呼吸になり苦しみながらうずくまる――そんな夢を見るようになった。


散文(批評随筆小説等) 孵卵 Copyright 光井 新 2011-08-02 21:24:00
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