働かざる者食うべからず mixi日記より
前田ふむふむ

「働かざる者食うべからず」という言葉がある。レーニンが、キリスト教の伝道者パウロの言葉を引用して、述べた言葉であるのは、有名ですが、
キリスト教に詳しくない僕は、レーニン主義にも詳しくない僕は、
勝手に解釈してしまいますが、
「働こうという意志の無いものは、(即ち、怠け者の心を正さなければ、)
 社会の一員として、食べる権利はないのです。」というように読んでは良いと思うのですが。
道徳的な観点からも、何かもっとものように思えます。
誠実に一生懸命働いて、やっと、食にありつけるような人がいる一方で、
働かないでぶらぶらして、あるいは非行に走るような人が、蓄えがあるために、何もせず、怠惰な生活をして、たらふく食べているようであれば、
とても、不条理であり、とても、許されるべきではないように思うからです。
そして、
正直に働いたもの、こそが、食を与えられるべきである。という考えに
行き着くのであると考えられます。

キリスト教も、レーニン主義も、何とか主義というのは、大方、イデオロギーであると思うのですが、
僕は、なにかの折に、イデオロギーの恐ろしさを、どこかで、書いたことがありますが、イデオロギーとは、とても美しい衣装を着ていると思います。だから、
とても魅力的に見えるのです。そこには、正しいものと、正しくないものの
二元論が常にあり、つまり道徳的な世界観が常にあり、その正しいもの側にいると、社会での使命感のようなものも、十分に果たしている錯覚に陥り、そのイデオロギーに忠実な、僕のいる位置、僕の行為、僕の考えは、常に正しいというかんがえになり、そうでない考えは、すべて悪という
ことになり、それを排除する事が、即ち、社会正義であり、最も、正しい人間として生きることであるという結論に行き着くのです。

勿論、それらはイデオロギーでも、確かに半分くらいは、あるいはもっと多い場合もあるでしょうか、健全で正しい考え方もあるでしょう。でなければ、人は、思想的にも、親近感をもって寄り付きません。しかし、表向きのそれらの美徳は、大方、為政者や、そのイデオロギー団体の勢力拡大の、道具として巧妙に使われてきたのであると思うのです。

「働かざる者食うべからず」も、イデオロギーの言葉であると思います。
これを述べたパウロ、レーニンの二人は、大きな例外を認めていないと思います。
だから、働く人=食べる人、働かない人=食べてはならない人、
という風な公式になります。
よく考えれば、わかりますが、これを原理として、そのまま、まかり通ったら、世の中が滅茶苦茶になると思います。
生まれつき障害があり、働くことを断念した人は、どうなるのでしょうか。
精神的な障害(精神病)のある人は、どうなるのでしょうか。
もはや、働くことが出来る年齢を過ぎた高齢者は、どうなるのでしょうか。
資産があり、とくに働きたくなくても生活ができて、自分の趣味で豊かな人生を歩みたいという人は、どうなるのでしょうか。
働かずに、学問がしたいという人は、どうなるのでしょうか。
遊ぶことこそ、人生の醍醐味であるという考えの人は、どうなるのでしょうか。
働くことより、詩を愛する詩人は、どうなるのでしょうか。


僕らには、働く自由もあれば、働かない自由もあり、遊ぶ自由もあれば、
遊ばない自由もあると思うのです。
もっといえば、食べる自由もあれば、食べない自由もあると思います。
(この場合、食べないと死んでしまう場合もあり、問題かもしれませんが、
この場合いわゆる、働かない時に食べて、働いた時に食べない自由も含まれると思います。


僕は、物事を見る場合、二元論で考えるもの、解決しようとするもの、
は、疑って掛かります。大いに悪意のイデオロギーが隠れているからです。しかし、多元論至上主義という二元論もあるので注意を要しますが。
でも、物事を多様に、考える思考原理には、
なるべく信用して接することにしています。
その思考の中から、僕が選べる自由があるからです。




散文(批評随筆小説等) 働かざる者食うべからず mixi日記より Copyright 前田ふむふむ 2011-07-21 22:28:31縦
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