エニー・エンター・キー
mizu K


エニー・エンター・キー ver. 1

ヤン(yan)とレトネ(retne)の、鍵(key)にまつわる話

ヤンが朝起きると虫になっていなかった
のでごく普通の朝であった
レトネはまだとなりですうすう寝ている
ヤンはベッドからごそごそ降りるのに
床をかるく足先でだいじょうぶか確認する
この部屋はときどき伸び縮みする
床も数十センチ乱高下していることもあり
ヤンは何回かベッドから転げ落ちたことがある
あの階段を一歩踏みはずしたときに似た感覚は
何度経験しても口からなにか飛び出そうで

まあボリス・ヴィアンの小説ぽくておもしろいんじゃないのー
そう言ってレトネは笑うが
そのときヤンは釈然としない顔をしていたのだろう
ハツカネズミも飼おうよとレトネは提案したが
ネズミのまえに繁殖中のあのGをな、と却下された

無精して足先で床を確認していると
こつ、と何かかたいものが触れた
足指にうにょ、とはさむと
つめたい
顔の高さまで屈伸よろしく持ち上げてみると
それは
知らない鍵だった
なんの鍵だ?
だれの鍵だ?
なんとなくレトネの顔をみる
彼女はまだすうすう寝ている

とりあずそれはテーブルに置きヤンは浴室へ向かう
ヤンの歯みがきは起きてすぐ
レトネは朝食のあと
洗面台を交互に使えるのはいいよね
と住みはじめのころふたりで話したことがある
でもふたり一緒にならんでシャカシャカするのもいいかもね
とごちそうさまな会話をしたこともある

戻ってくるとレトネも寝ぼけておへゃのょーと言うので
おはよーとかえす
彼女が寝起きでぐだぐだなうちにコーヒーと朝食の準備
それからいただきます
さっきテーブルに置いていた鍵はなくなっていた

食後レトネが目をつけたりまつげをつけたりして化けている間
ヤンはなんとなくギターをぽろぽろ弾いている
ボリス・ヴィアンも吹いていたある曲の旋律に
てきとうな和音をつけてみたりする
そういえばこの曲の元のキーはなんだったっけ
それから
あー、さっきさ、なにかの鍵を…
と声をかけるが
んー?とレトネにはよく聞こえていない
それで間をはずしてしまう
部屋にはギターの音と
窓ごしに朝のかすかな喧噪
ベランダをハツカネズミと猫が通りすぎる

準備終わってふたりして外出
がちゃん、とドアを開けると
ひゅう、と風が入る
今日もまだまだ寒いねー
そう言ってレトネはコートに手をつっこんでいる
ええと、鍵、かぎ
とぶつぶつしながらヤンがポケットを探っていると
レトネはコートのポケットからさっきヤンが見つけた鍵を
さっさと取りだし
じゃっきん、と差し入れ
がっちゃんこ、と鍵を閉めた
ドアにはきちんと鍵がかかっていた






エニー・エンター・キー ver. 2

ある日エニエンが親戚のおじさんの手伝いで
壁のタイル貼りの仕事をしていると
そまつな服を着たおじいさんが通りかかった
いい天気さな、とおじいさんが背中ごし言うので
そうさな、とエニエンはそっちを見ずにこたえた
なにをやっているかね、とおじいさんが聞くので
見りゃわかるだろう、とエニエンはそっけなくこたえた
が、その実ふたりはけっこう仲がよかったので
会話も普段からぶっきらぼうだった

エニエンの仕事は順調に進み
ひとくぎりついたところで少し休憩をとる
タイルのじゅんじゅんと整列した壁を満足げに眺めていると
となりでおじいさんもうれしそうに眺めている
これは、あれだな、そうさな、とおじいさんがつぶやくので
なんだ、とエニエンがたずねると
これは、鍵盤だ、とおじいさんはいう
キーボードとはなにさ、くえるのかい?とエニエンが問うと
こういうことさ、とおじいさんは木炭を拾ってきて
タイルのひとつひとつに奇妙な配列で文字をつらねる
Q、W、E、R、T、Y…
ク…、クウェルティ?エニエンが苦労して読み
食える、の名詞形か?と思っていると
すきな文字を押せ、とおじいさんが言う
なんだよ、それ、とエニエンはかえすが
すきな文字を、押せ、とおじいさんはくりかえす
じゃあ、
エニエンはとりあえず左端のQのタイルを押してみた

するとQと書かれたタイルが
がっこん、と音をたてて
スイッチのように
落ちくぼみ
それから
それから
それから、Qにまつわる話がここにはじまる



エニエンの多岐にわたる物語のプロローグ、おわり





自由詩 エニー・エンター・キー Copyright mizu K 2011-05-05 03:00:06
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