何も特別なことなど起こらなかったように
高梁サトル


ゆるい傾斜を登ってゆく
幸せそうにショッピングバッグを抱えた女にとって
街が壊れたよるを窓から眺め
水晶の破片が星のようにきれいね、と
うたうことだって可能なのだろうか
その美しいとは言い難い純粋さを前に
唇を開いて傷付けることが簡単に思えてしまう
わたしの感受性という暴君よ
目覚めないで、どうか

眼を閉じて耳を澄ませている
善意も悪意も飲み込んで吐き出さずにいられて初めて
唇を開く権利を得るのだと、つぶやく
裂けて縫合することのできない傷口を繋ぎ合わせるような
アルコールを煽る片手間にチェスゲームをするような
やさしくもおそろしい道具を手にした人間の
沈黙の合間だけが息をつけるまたたきであることを
知れればそれでいい、今は

(泣いても叫んでも世界は変わらない
(感情や言葉で世界は変わらない
(あれは
(傷口を縫う細い針から糸が抜けていくように
(キングを失くしたままチェス盤に駒を進めるように
(ただこぼれ過ぎ去るもの(信じていたかった)

薄情さを恥じつつ今日も
ほつれた髪を結び直して電車へと流れ込む
目的地へ向かう人波
生活を放棄してかの地へ行けたらいい
けれどそうして築きあげてきた大地ではないことも知っている
前を行く親子の買い物袋が不自然に重そうであれば
独り身の自分の買い物袋を少し軽くして
明日またゆるい傾斜を登るとき
幸せそうにショッピングバッグを抱えた女に出会ったら
俯いて目をそらすのだろう

何も特別なことなど起こらなかったように


自由詩 何も特別なことなど起こらなかったように Copyright 高梁サトル 2011-03-19 00:34:58
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