十一月の童話
salco

幸せ


孤児院住まいの見習いウエイトレスは
真っ赤な口紅のついたコップを載せた
ステンレスの盆を厨房の隅にそっと置くと
裏口から同じくらいにそっと出た
ダイアモンドとマスカラのお客はまだ
ハエが浮かんでいたと喚いていた
少女までもを死んだハエのように見た客は


漢字だらけの通りを人波に逆らって、少女は
もうどこへも帰れないと思いました
陽気で苛酷な街にいて
自分は幸せの仮面さえ持ち合わせていないのでした

泣きじゃっくりに息が切れて佇んだのは
海辺の公園の噴水前
月曜日の夕暮れ時、人影はみな
家へ家へと踵を返す頃合いです

そこで少女は一人の浮浪者に会いました
レストランの裏口を一つ一つのゴミ箱漁り
空の酒瓶から滴を集め、食べかすの魚や肉や野菜屑を
一日の糧にして生きている

裏口で時々すすり泣いていた小さなウエイトレスを
この初老の浮浪者はよく憶えていました
鉛色の顔の中でどろんと黄色く光る目が覗き込んだ時は
ぎくりと身構えたものの
少女も歯の無いこのおじさんを
何となく憶えていたのでした

二人共、帰る場所などこの世に無いので
紅い旗袍チーパオを着た痩せっぽちの少女と
ぼろと新聞紙を纏った男は親子のように寄り添って
夕陽の方へ歩いて行くことにしました

寒くないかね? 言うと浮浪者は
風に舞う新聞紙を捕まえて来て
少女に上着をこさえてくれました
少女は再び泣き出して
孤児院へは帰れない訳を
しゃっくりの中から途切れ途切れに話しました

就労したら出て行かねばならない決まりの
家へ入る為に
何十人もの見知らぬ子供達が一台の
落ち着いて眠れるベッドの空き待ちをしていて
本当は明日が初月給の貰える日であること
同時に路頭へ叩き出される日であることも話しました


街を出て国道沿いをとぼとぼと
長い影を引いて歩きながら
今度は浮浪者が
遠い故郷の話をしてくれました

鉄骨とコンクリートの間で働いて働いて
金を送り
いつしか都会の誘いに溺れて忘れた故郷に
恥じる心と壊した体で帰り着いた時には
すっかり老けた妻と見違えるような子供達の非難と憎悪が迎え
そうしてとうに食卓の席は
酒浸りの自分の座れる場所ではなかったと
浮浪者は言って
あたり前だよなあ、と笑いました

そうして真っ黒な手で懐を探り
とうに用無しの財布から
擦り切れた一葉の写真を宝石のように取り出すと
自慢げに一人一人を指差して
少女に名前と年を教えたのでした

この夕暮れの同じ空の下のどこかでは今頃
小さな子供が明日から眠るベッドを想い
初老の夫婦が明るい電燈の下
穏やかに談笑しているのだろう
二人は家族のように手をつないで国道沿いを歩いて行き
すっかり日も沈んだ頃
巨大なゴミ処理場に辿り着きました

おもしろおかしく笑いながら
色んな不要品からなる山を登り
テレビや冷蔵庫の頂上に腰を下ろすと
男は破れかけたポケットをまさぐって
昼間見つけておいたサンドウィッチを
少女にくれました

少女が半分に割ろうとすると、それを制して
モク拾いで集めた煙草の一本に火を点けて
ぷかりぷかりと
煙を吸っては吐き出しました

そのように身を寄せ合って二人は長らくの間
空に瞬き始めた星達や
遥かな街明かりを黙って眺めておりました

闇が降りると空はすっかり深海のようになって
大地の貯えていた日中の熱は見る見るそこへ落ちて行き
二人はあまりの寒さに身震いしました

「行こうか」と浮浪者が言い
「行きましょう」と少女が答え
二人は再び立ち上がり、手をつないで
そろそろとゴミの山を下りました

この向こうは埋立地
そのまた向こうは太平洋
夕陽の沈んだ先へ、きっと夕陽がまだ若く
真昼を照らしている場所を目指して
二人は闇の中をどこまでもどこまでも
歩いて行ったのでした


旗袍 … チャイナドレス


自由詩 十一月の童話 Copyright salco 2010-11-07 23:05:43縦
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