歴史的自己  死者を介して    mixi日記より
前田ふむふむ

歴史的な存在としての人間(僕が考えている場合では、この定義は正確であるかは疑問であるけれど、ごく一般的には、)は、親から子へ、年長者より若者へと、常に変質しつつも代々へと継承されていくものであると考えられる。
だから、本来的に人間のあり方が歴史であるとはいえるが、つまり、歴史的であるからこそ、人間としての存在意義があるとも、ある意味言えなくもない。
それは、時とともに、あるいは、死を介在して、生々しさを失くした、風化したものに変貌していく場合もあれば、逆に、わずかなことが、輝かしく新たな社会や生活に強い影響を与える場合もあるといえるだろう。即ち、いずれにしても過去から現在へ、現在から未来へと影響を与えるからである。
しかし、多くは仔細な活き活きとした部分は、削り取られていき、
嘗ては、はっきりと、リアルに現れていたものが、茫としたものに、変わっていくといえるのではないだろうか。
例えば、僕という自分自身も、原因として、また結果として、ひとつの歴史であるといえるが、そういう僕からの眼線で見れば、最も身近にいる両親は、遺伝的歴史として、主観的にではあるが、生々しく、僕の前に息づいている。しかし、祖父母のことになると、どうだろか。遥かな思い出としてあるが、遠い記憶として、段々と薄れていくといえるだろう。この横軸を、他人同士、即ち社会性のある人間一般として考えたらどうだろう。これが他人となった場合の歴史的現実では、更に深刻になることだろう。
だから、本来、歴史的な横軸、即ち、主観的にも、客観的にも、横軸の個人(または集団)と個人(または集団)の隔たりは、大変、大きいといえるだろうか。
少し、抽象的に話になってしまったので、具体的な例で、問題を絞って話してみようと思う。ここで、
死者を介した、ひとつの例でいってみよう、
一人の個人を、その歴史性の中で見てみると、例えば人間Aが死(物質的死)んだとしよう。そのことによって、人間Bに、何らかの形で、その経験が、受け継がれたとしよう、人間Bに伝達されたものは、歴史の主観的・客観的事実、つまり、ある伝承された、記述された事実が、継承されるだろう。しかし、人間Aの死(精神的な死)によって、人間Aが、戦争などで、受けた、傷のような過去をあるいは憎悪や苦悩を伴った内面の深刻さは,人間Bには、受け継がれることは絶対にないのであるといえるだろう。もはや、その時、人間Bには、人間Aが受けた、あるいは経験した、生々しい傷の現場(個人の内的真実)を経験することはないからである。
(勿論、その現場などを見学する事は出きるであろうが、)
僕は、これを、次代のものが受け継ぐ歴史、即ち物語(のようなもの)といっても良いと思う。
自ら体験をしないもの、
私たちが、受け継ぐ歴史とは、そのような伝承や、書架に置かれたものでしかないといえるのではないだろうか。
たとえ、広島原爆記念館や千鳥が淵の戦没者慰霊碑で、個人の内面に深刻に刻まれることや、感じたことがあっても、
実際、体験した人の比較ではないだろう。もし、分るといったのならば、それは、僕の傲慢の他はないだろうと思う。僕の見ているものは、あくまで物語(のようなもの)なのである。
詩を読むときにおいても、考えなくてはならないだろうと思う。
石原吉郎の詩の世界や鮎川信夫の詩の世界を、物語(のようなもの)として、読むことはできるが、石原吉郎や鮎川信夫が直面した世界を、決して解ることは出来ないと考えているからだ。(勿論、そう考えていない人も当然いるであろうと、考えているけれども。)
だから、方法論としては、詩を読むことにもいえるだろうけれど、
僕たちに出来ることは、
歴史の中にいる僕、横軸の中に存在する僕を自覚しながら、
歴史というもの、即ち過去をそのまま安易に受け取ることではなく、疑りながら(勿論、歴史を読んだり、学ぼうとする僕自身を疑りながらであるが)、傷のない、痛みの伴わない、死者の体験をする事だろうと考える。
そして、その体験を、僕自身が、即ち、今、生きている時代がもつ、傷や痛みや喜びといったものを経験する生々しい僕(この僕がする経験は過去の者たちが経験し得なかったものである場合もとても多くあると思う)が、この僕が、
自らの受肉にしてゆくこと(同時に、そうする事しか出来ない僕の限界が在ると自覚し認識する必要があると思うのである、)が、
即ち、そういう諸々を、受け継ぐことが、僕の新たなる歴史であると考えている。


散文(批評随筆小説等) 歴史的自己  死者を介して    mixi日記より Copyright 前田ふむふむ 2010-09-27 22:38:39
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