お前が世界と戦う時は 2
テシノ

「正義」の最大の敵は「悪」ではなくて「べつの正義」なのだ

なんだか最近よくこの言葉を見たり聞いたりする。
ひょっとしたらごく一部で使われているだけなのに、私の好みのフィールドが偏っているせいで触れ合う機会が多くなっているだけなのかも知れない。
とか回りくどい事言ってるとちっとも話が進みゃーしねぇので、よく使われてるって事にするよ。
ごほん。
これは寺山修司の「幸福論」に出てくる文章なのだが、この後にはもう少し続きがある。
ご存知の方もあろうかと思うが、一応以下原文。

「正義」の最大の敵は「悪」ではなくて「べつの正義」なのだ、というのが確信犯という犯罪の論理である。

いきなり現れる「確信犯」という言葉だが、誤解されがちなので一応解説しておく。
よく見る誤用は「悪い事と知っていながらわざと罪を犯す」という意味で使われるものだ。
これだと犯罪者に「悪いという確信がある」事になるわけだが、実際の意味は逆となる。
自分の良心や信条に従って正しいとした行為が社会的な法に触れた場合、つまり自分の行為に「良いという確信がある」のが確信犯なわけだ。
本人が法に触れると知っているかどうかは関係がなく、またこれも誤解されがちだが、政治的思想犯だけに当てはまるというものでもない。

さて、何故わざわざ全文を紹介したかというと、この文章は前半のみの場合と全文の場合とでは全く意味合いが異なってくるからだ。
確かに前半部分だけでも意味は通る。
本来、正義が敵とするのは悪である筈だが、その悪とされた側の立場から事態を眺めればそこには「べつの正義」が現れる、といったところだろうか。
だからそんな世界の多様性を認めて仲良くしましょうね、という、どちらかといえばラブ&ピースなプロパガンダとして使われているようだ。
しかしここに後半部分が付け加えられると、どうだろう。
「相手が自分と違う」という多様性こそを敵とし、戦いを挑む事を本懐とする者が世の中にはいるのだという、いわば前半のプロパガンダを打ち消すようなものとなる。
すると前半のプロパガンダを善しとする者はたちまち矛盾に襲われる。
何故ならば、彼等は「多様性を認めないという多様性」を認めなければならないはずだが、それを認めるという事はつまり多様性を認めないというのと同じ事で(以下略)となってしまうのだ。
嗚呼、パラドクス。
まぁ実際のところ、多様性を認めて仲良くしようぜ、なんて事がとっても難しいから敢えてそのような声が上がるわけで、本当にこの矛盾についてを悩んでいる人なんぞほとんどいないだろう。

私達はこの世に同じ人間が二人といない事を知っており、その多様性については全く無意識のうちに認識している。
しかしその中でも、認めちゃいるが絶対に許す事のできない多様性がある。
例えば殺人犯。
私達は「そういう事をする人もいる」と知っているが、だからといって「人それぞれだから仕方ないよね」などと許しはしない。
法律がどうのという以前に、倫理や道徳といった物差しで「こっから先はダメ」と自主的に線を引く。
それらは私達の血肉に染み付いたものであり、理屈ではなくほとんど反射的に、そこにそぐわぬ者を弾き出すのだ。
従って、倫理や道徳の申し子である私達には無造作に世界の多様性を許す事など不可能であり、例のラブ&ピースなプロパガンダも、結局は理想論にすぎないという事になる。
いや、むしろ「違いを知り、違いを許さない」という、本来ならば争いや差別の根幹となる精神を、倫理や道徳という大きな後ろ盾の元に堂々と掲げながら「仲良くするために違いを知ろう」と叫ぶのだから始末に終えない。

敵とはなんであるか。
それは「私に味方をもたらす者」である。
私達は戦いがなければ敵もおらず、敵がいなければ味方を得る事もできない。
乱暴な言い方をすれば、戦わなければ私達は一人ぼっちだ。
戦いとは、何も武器を手に相手を殺すばかりではない。
日常生活の中での他者との意識のぶつかり合い、それも立派な戦いだ。
味方とは、そんな戦いの過程もしくは結果で得るものであり、ある者はそれを「友」と呼び、またある者は「配偶者」と呼ぶ。
そして「仲間」と呼ばれる類いの味方もいる。
全てがそうだとは言い切れないが、この「仲間」という味方は非常にタチが悪い。
何故ならば、人は時として「仲間」という味方を得るために敵を作り出すからである。
この時、戦いは既に己が味方を得るための手段でしかなく、そのためになくてはならない前提条件となる。
こうした「仲間」を得るための戦いで最大の効果を発揮する武器が、倫理や道徳である。
それは大声で叫ばれ、ますます人々の中へと浸透し、叫ぶ声は次第に大きくなり、やがて正義と呼ばれるようになる。
逆を言えば、人々が声高に倫理や道徳を叫ぶ時は、己が正義という力を得んがための戦いにピッタリな敵を見つけた時なのだ。
人々の血肉から抜き出されて武器となった倫理や道徳は、実態のないただの言葉にすぎない。

私は別に構わないのだ。イケメンやエコバッグを賞賛していい。倫理や道徳を大切にしていい。
だが、それらを味方を募るための「善きもの」として、そこから敵を見つけ出すような戦い方をしてほしくない。

そんな風にお前が世界と戦う時は、私がお前の敵となろう。

私はこの言葉でもって、世界に介添えする。


散文(批評随筆小説等) お前が世界と戦う時は 2 Copyright テシノ 2010-09-11 10:47:34
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