四谷見附のひと
恋月 ぴの

これって本物なの?

私の問いかけに彼は口元を僅かに歪ませながら首を振った

遊びに来ないかとでも誘われたのだろうか
今となっては定かではないのだけど

大手町あたりで待ち合わせ丸の内線四谷駅で降り
外堀通りを赤坂方面へふたり肩を並べ歩めば
程なくして迎賓館が見えてきて

ここは俺んちの庭だから
そんなぐうにもつかぬ冗談を言われた記憶がある

乗り越えることなど到底叶わぬ白塗りの鉄柵越しに
ネオ・バロック様式の建物と
きれいに手入れされた庭を覗きみることができた

鉄柵を乗り越えられたとして果たしてこの手に何が残ったのだろう

学習院初等科手前の路地を分け入り
古びた木造アパートの1階角部屋だった気がする

招き入れられるままにお香の香りする六畳と三畳の二間
埃ひとつ落ちていない整然とした床の間には

太刀と脇差の一対が飾られていた

彼とは単に友人と呼べるような関係だったのか
恋人同士であったと肯定できるような素振りは微塵にも無く
それでも、ある一時期、彼の潔さというか
生きることへの諦念、考え方そのものに惹かれていたのは確かなことで

由緒ありそうな小さなちゃぶ台にふたり向かい合い
手土産の和菓子などつまみながら彼の煎れてくれたお茶をすすった

あの日は蝉が盛んに鳴いていた覚えがある

興に乗り構えた太刀のひとふり
居合い抜きでもみせるように彼は鍔に指をかけ

いつもながらに口元を僅かに歪ませ一太刀で人は斬れないとか
武士の切腹に介錯はかかせないのだとか

そんなことを私以外の誰か
例えば彼の背後に立つ六尺の褌姿の若武者へ語らっているようでもあり
陽に映える刀身の波模様はとても偽物とは思えぬほどの美しさで

その場に押し倒されたとしても
彼に抗うことなど叶わなかったではないだろうか

今年の夏、蝉の鳴き声なんだか寂しいのではと憂いてたけど
訪れた志村坂上近くの公園ではここを先途とばかり鳴き競っていて

何故今更になって彼のことなど思い出したのかと
額の汗を拭うハンカチにあの日あの部屋の移り香を知る





自由詩 四谷見附のひと Copyright 恋月 ぴの 2010-08-16 18:10:26
notebook Home 戻る