失恋に溺れて
チアーヌ

 


 捨て身の勢いだけで引っ越して来た初めての街は、知り合いがひとりもいないところだった。
 寂しい、とかそういう気持ちは、どこか麻痺してしまっていた。誰も知り合いのいない場所で、毎日黙って暮らした。それでわたしは一向に平気だった。
 でも本当は、自分が平気なのが自分でも不思議だった。
 あれほどいろんなことがあったのに、それが解決することなく、ただ心のどこかが死んだような状態。あるいは、感情に強烈な麻酔でも打たれたような。
 まぁでも、平気なのはきっといいことなんだろう。
 わたしはただただ毎日、寝たり起きたりして日を過ごしていた。
 引越の前まで、とあるクラシック音楽系のマネージメント事務所に勤めていたわたしは、大学を出てから正社員としてすでに10年近く働いていたから、一応わずかながら退職金も出たし、失業手当も貰うことができた。だから、引っ越し代には困らなかったし、半年くらいは寝て過ごせそうなのだった。

 仕事を辞めて引っ越しをする。
 これまで、まるで石橋を渡るようにして生きて来たはずのわたしが、こんな思い切ったことをすることになった理由はずばり、失恋だ。
 平凡過ぎて嫌になってしまうが、本当のことなんだから仕方がない。
 でも、生まれて初めてだったのだ。
 恋が、というわけじゃない。そんなにわたしだって幼くなんかない。いい年をした大人の女であるはずだったわたしは、生まれて初めて、恋に「溺れて」しまったのだ。
 悔しいけれど、「溺れた」のは初めてのことだった。

 相手は、俊彦という、7歳年下の男の子だった。
 舞台を作る関連会社の男の子で、制作を希望していたけれど、修行中という感じで、仕事に関しては、わたしから見てもまだまだだった。
 わたしは、俊彦の会社に仕事を発注できる立場の人間だった。
 クラシックの舞台マネージメントに関して、業界でそこそこ名の知られた存在だったわたしに、妙な自分アピールをしてくる若い男というのは実のところけっこういたのだけれど、わたしはその手の男の子たちに全く興味は無かった。
 だから、年下だから転んだとか、そういうわけではなかった。それに、長いことつき合っていた妻子持ちの男もいた。
 だから別に、寂しかったとかそういう感じでもなかった。わたしは仕事が忙しかったこともあり、教養が深く得るものが多い不倫相手との関係に充分満足していたはずだったのだ。
 そのわたしが、なぜ、俊彦に、あれほどまでに嵌ってしまったのだったろうか。
 自分でもわからない。わかれば苦労しない。理由なんかないのだ。今だってよくわからない。本当に、なぜあんなことになってしまったのだろう?

 わたしが長くつき合った年上の不倫相手は、ひとことで言えば尊敬できる人だった。教養があり、仕事ができ、一緒にいて安心できる。見た目だって良かった。わたしは彼の側にいられればそれでいいと思っていた。彼はすべての面でわたしの好みだった。
 それにくらべたら、俊彦はどこもいいところなんかないと言っていいほどだった。
 まず、教養がない。これは致命的だった。
 この業界は、教養がすべてと言ってもいいくらいなのだ。クラシック音楽は古い文化や芸術と密接に結びついている。語学ができるのはもちろんのこと、この仕事をしていくつもりなら、とりあえずこの業界の誰とでも会話を合わせられる程度の教養はどうしても必要だった。俊彦は、その教養があまりにも足りなかった。覚えようという気持ちはあったのかもしれないが、基礎知識部分ですでに躓いていた。
 わたしは三十二という微妙な年齢だったので、業界の若者が集まる飲み会に、時折誘われることがあった。断ることも多かったけれど、気が向けば出席していた。
 俊彦と話すようになったのは、そんな飲み会の席でだった。
「ねえ町村さん、俺、また東谷さんに怒られちゃいましたよ。お前は黙ってろって。俺は普通のこと言ったつもりなのにさあ」
 俊彦は勝手に、わたしのことを優しい人だと思い込んでいたらしく、飲み会の席で同じ会社の上司に対しての愚痴を語ったりしていた。
「それはそうじゃない?だって俊彦君が言ってることは、ただの小手先の技術面のことなんだもん。そんな専門学校で習ったようなこと言っても、悪いけどバカにされるだけよ」
 ワインのデキャンタを独り占めして飲みながら、俊彦の愚痴を聞き流すのは楽しかった。俊彦には、どこにも、わたしを緊張させるものがなかった。俊彦はまだこの世界のイロハを知らない可愛い男の子で、気がつけば、わたしのちょうどいいストレス解消の相手になっていた。けれど、それはそれだけの話で、それ以上でもそれ以下でもないはずだった。

 でも、とある飲み会の晩。
 いつのまにか夜が更けて、わたしは酔いで半分濁った目で俊彦の指先を見ていた。俊彦の横顔、そして煙草に火をつける仕草。足を組む。ほどく。笑う。グラスを口に運ぶ。そんな様子を見ているうちに、なんだかわたしの頭が重く、熱くなってきたのだった。
 ひとことで言ったら、俊彦は仕草が素敵な男の子だった。そしてモノを言う表情も良かった。それだけかと言われたらきっとそれだけだ。
 あの夜、わたしに神の啓示が降りて来た.....というのは嘘だけれど、とりあえず、理性的に考えたら全くわたしの範疇ではない男の子を、ただ単純に好きになったのは、どちらかと言えば頭でっかちだったわたしにとって、とにもかくにも生まれて初めてのことだったのかもしれない。
 
 何度も何度も迷いながら、でも結局わたしは俊彦を誘った。俊彦のほうもまんざらではなかったようで、わたしたちは案外簡単につき合うようになってしまった。
 そして俊彦は、いつのまに、わたしの住んでいたマンションに居着いてしまった。
 その気になれば追い出すこともできたけれど、そうしなかったのは、やはりわたしが俊彦のことを完全に好きになってしまったからだろう。でも、一緒に暮らすのは危険なんじゃないか.....そんな気は、どこかでしていた。
 俊彦は、知性も教養も無かったけれど、よく気の利く優しい男の子だった。疲れた夜、家に帰ると、簡単ではあっても食事が出来ている。掃除や片付けもやってある。有り難かったけれど、それに慣れてしまうことに一抹の不安はあった。
 わたしは一度も俊彦にちゃんと好きだなんて言わなかった。仕事面でも褒めたことなんか無かった。俊彦が家で待っているだろうとわかっている日でも自分に仕事があればそちらを常に優先した。
 わたしにはわかっていたから。いつか俊彦が出て行ってしまうことが。そして自分が俊彦に嵌りつつあることが。わたしは怖かった。
 怖かったのだ。

 何年もの間、忙しさにかまけて目をそらしていたはずの、わたしの「寂しい」が入っていた秘密の箱を、俊彦は開けてしまったのだ。
 その箱からは、いろんなものが逃げて行った。もう取り返しがつかなかった。閉じ込めておくしかないものばかりだったのに。
 パンドラの箱は、最後に「希望」が残っていたというけれど、わたしの「寂しい」が詰まった箱の中は、最後に「空虚」だけが残っていた。

 引っ越して来たばかりのとき、何もない部屋の中に布団を敷いて、ただ仰向けに寝て天井を眺めていると、よくグルグルと回り出して、自分が床下に吸い込まれて行くような気がした。
 異常な感覚だったけれど、怖いなんて感じなかった。
 死ぬときってもしかしたらこういう気持ちなのかなあ、とぼんやり思った。寂しくもなく恐怖も感じない、いたって平常心だった。でも、心のどこかが麻痺している感じはした。
 そう。恐怖など、今も感じない。
 前まで住んでいた、恵比寿のセキュリティばっちりの15階建てマンションとは全然違う、適当に決めた木造の、もちろんセキュリティ機能なんか何ひとつついていない、小さな2階建てアパートに住んで、わたしは毎晩、窓を開けて寝ている。
 だってそのほうが気持ちいいのだもの。
 夏の初め、世田谷の奥の、駅から25分も歩かなければならないアパートは家賃も安く、窓を開ければ川のせせらぎが聞こえた。隣に古いお屋敷が建っていて、そのお屋敷の庭の木々がまるで自分専用の林のようだった。

 想像していた通り、やはり恋の終りはやってきた。
 ある日、俊彦が出て行って、帰って来なくなってしまったのだ。
 わたしはしばらく、何も無かったように過ごしていた。
 これが当たり前の状態なのだと、思い込もうとしていた。
 しかし。
 ある晩、わたしの中の何かが切れてしまったのだった。
 わたしは俊彦の携帯に電話をしまくった。メールもしまくった。戻って来て欲しかった。元通りになりたかった。一緒に暮らしたかった。
 それまで冷静に構えていたわたしの、異常なまでの豹変ぶりに、俊彦は完全に引いてしまったらしく、ある日、携帯は着信拒否になっていた。
 それでもわたしはあきらめきれなかった。俊彦に会いたい一心で、仕事場まで押し掛けた。
 自分で自分のことが信じられなかった。7歳も年下の男にストーカーまがいのことをするような女では無かったはずだった。
 そんな状態をとうとう周囲の人間が知るようになった頃、俊彦は人を介して、わたしにもう二度と近づかないで欲しいと言って来た。
 惨めだった。本当に惨めだった。 
 しばらくして、わたしはやっと落ち着きを取り戻した。その後、わたしは一時期、かなり熱心に仕事に打ち込んだ。
 ちょうど、大きな仕事も抱えていた。わたしが企画し進めていた計画は、滞り無く実現された。
 全国の主要都市で開かれる、ヨーロッパのオーケストラの公演。
 新進気鋭の指揮者による冠公演だった。演奏は素晴らしく、評判も良かった。企画は大成功だった。
 それらの後処理も含めすべてが済んだとき、わたしはふと気がついたのだった。
 自分が空っぽになってしまっていることを。
 燃え尽きるってこんな感じなのか、とわたしは変に感心してしまった。

 わたしは会社を辞めた。引き止められたけれど、留まることはできなかった。
 そして、俊彦と三ヶ月ほどを過ごした部屋を出るために引っ越しをした。よく考えたらたった三ヶ月間のできごとなのだった。
 会社を辞めてしまったら、もう都心に住む必要は無かった。
 そしてわたしは、今までと全然違う私鉄沿線の、しかもその駅からさえかなり遠い、世田谷の奥のアパートに決めたのだった。
 恵比寿のマンションで暮らしていた頃とは全く違う環境で暮らすことになって、わたしは満足だった。
 わたしは毎日、どこへいくということもなく、近所だけですべての用事を済ませ、散歩などしながら日々を送っていた。
 仕事をしているときには、いつもきちんとした格好をしてばっちりとメイクをしていたけれど、仕事をやめた途端、それらのすべてが不要になった。ブランド品も香水もネイルアートも、すべてが自分から縁遠いものになった。わたしはノーメイクで髪を束ね、近所の店で安い普段着を買い、毎日それで過ごしていた。
 そうして、いつのまにつらつらと、半年近くが過ぎたのだった。

 そんなある日のことだった。
 一番わたしを買ってくれていた人が、不意に訪ねて来たのだった。
 わたしの直属の上司だった、定年間近の女性、小早川さん。
 この業界の裏も表も知り抜いた、海外の演奏家たちにも信頼の篤い、この道では有名な人だった。
 わたしはその女性上司の跡を継ぐものと、周囲からは見なされていたのだ。すっかり燃え尽きて会社を辞めてしまうまでは。
「久しぶりね尚美さん」
 わたしが少し重い気持ちでアパートのドアを開けると、小早川さんは戸口に立ってにこにこしていた。相変わらず、白髪を染めることなく上品に整えていた。
 小早川さんは、田園調布にある古い洋館に、年老いた家政婦さんと二人で暮らしている。彼女は、その洋館に一人娘として生まれた人だった。
 そんな上司に、こんなみすぼらしいアパートへ来てもらうなんて、気が進まなかったのだけれど、小早川さんは不意打ちのようにわたしの住む街の駅までやってきて、そして絶対にここに来ると譲らなかったのだった。 
「尚美さん。あのときは、何を言ってもダメなようだったから黙って見送ったけど、あなたとはいつかきちんと話したいと思っていたから来てみたのよ。ねえ、そろそろ、落ち着いたんじゃない?」
 小早川さんは、わたしの出したお茶には手をつけず、ただ静かに手を重ねて、そう話し出した。
 わたしは何を言ったらいいかわからず、一瞬ためらった後、
「疲れちゃったみたいなんです」
と、小さな声で答えた。
「そう」
 小早川さんは頷いた。
 そして部屋を見回し、わたしを見つめ、
「でも、ちょっと安心したわ。やっぱり来て良かったわ」
と、にこにこしながら言った。
「え?」
 わたしが思わず聞き返すと、
「もっとひどいことになっているんじゃないかと、心配していたのよ。でも、部屋もそれほど散らかっていないし、ここで気持ちよく暮らしているようね。顔色もまぁまぁいいみたい」
「そう、ですか」
「詳しいことはわたしもよく知らないし興味もないけど。今回みたいなことって、あなたくらいの年齢のときには、一度くらいはあることよね。わたしにだって身に覚えが無い訳じゃないわ。だから、あまり気にしない方がいいわ。もう落ち着いたのなら、忘れてしまいなさい」
 小早川さんに話したことは無かったけれど、やはりすべてを知っていたのだと思った。わたしは何も言えず黙った。
「さて。じゃ、本題に移るわね」
 小早川さんは持って来たバッグから、大きめの封筒を取り出し、それをわたしに差し出した。わたしは戸惑いながら受け取った。
「わたし、もうすぐ定年で今の会社をやめるでしょう。そのあと、個人事務所を立ち上げることにしたの。それでそこへ、あなたにぜひ来てもらいたいのよ。詳しい事はその封筒の中の資料を見てちょうだい。なんといっても半年もお休みしたんだから、もう疲れは取れたでしょう」
 小早川さんはにっこりと微笑むと、わたしの肩に手を置いて、
「待ってるわ」
と優しく言い、アパートの玄関から軽やかに出て行ってしまった。

 部屋の中にひとりになると、わたしは封筒を開け中身を確認した。
 事務所の概要と、働く場合の条件面などが書いてあった。
 内容は、良かった。
 その文書を読みながら、わたしは、やっと頭の中が少しずつ動き出したような気がしていた。
 その書類は、目の前に広がった、久しぶりの「社会」だった。
 ゆっくりと書類を眺めていると、自分がそこで何をすべきかが、確かなビジョンとして頭に浮かんで来た。
 何か、憑き物が落ちたように、わたしは感じた。

 そしてわたしは再び働き始めた。
 俊彦のことは、もう思い出すことも少なくなっていた。 
 そうして季節が過ぎ。
 夏の終わりに差し掛かった。
 夏の終わりは、空気と風の匂いでわかる。わたしは鼻がいいのだ。
 平日に休みを取ったある日、わたしは駅前商店街を歩いていた。晩ご飯にナスのカレーを作ろうと、材料を買いに出て来たのだけれど、なんだか面倒になって、外食でもいいかなあと思い始めていた。
 来週には再び都心へ引っ越しをすることに決まっていた。ここはいいところだけれど、わたしの仕事には向いていなかった。
 私鉄沿線のこの街は、昔ながらの商店街が充実していて、ほとんどすべての買い物がここで間に合った。
 大きなスーパーなどはあまり無く、小さな豆腐屋がまだまだ現役で商売をしていた。魚屋や肉屋もあって、店先で揚げているコロッケが、これまたとてもおいしかった。
 もう、こんなところに住むことはないかもしれない。そう思うと、ちょっと寂しかった。
 夕暮れがそこまで近づいていたけれど、まだ外は明るかった。
 わたしは、どうせなら一度、商店街のはずれまで歩きながら隅々まで探検してみようと思った。
 そんなことを考えながら、ぶらぶらと通りを歩いていると、ふと、どこからか太鼓の音が聞こえて来たのだった。
 ぽこぽことした、自然の素材で作った太鼓のような、素朴な音色だった。その音と一緒に、しゃらしゃらとした、アコースティックギターらしき音も聞こえて来た。
 なんだろう?と思いながらわたしは周囲を見回した。
 音は上の方から聞こえて来るようだった。まるで音のシャワーを浴びたように感じた。見上げると、窓が開け放たれたカフェがあった。
 はじめて見るカフェだった。
 わたしは音に誘われるまま、細い階段をそのカフェへ向かって上がって行った。
 扉を開けてカフェに入ると、そこはなんだか不思議な空間だった。
 天井の梁は剥き出しで、裸電球が下がっているだけ。そうして古ぼけた木製の椅子やテーブルが、わりと無造作に置いてあった。窓が四方八方開け放たれているせいか風の通りが良く、そのせいか、エアコンは回していないらしいのに、それほど暑くなかった。
 前の方を見ると、簡単なステージが用意してあって、そこで2人の奏者が準備をしていた。ジャンべに似た太鼓とアコースティックギター。楽器はただそれだけ。
 わたしはカウンターへ行って、ビールを一杯もらった。ライブは、1ドリンクで見られるようだった。
 風の入る窓際の席に腰掛けると、間もなく演奏が始まった。客はまばらだったけれど、仲間内だけという雰囲気でもなく、適度にばらけていて居心地が良かった。
 普段、わたしは仕事で音楽を聞きすぎるくらい聞いているけれど、こういう音楽をライブで、それもこんな風に聞くことは稀だった。
 ビールを飲むと、歩き疲れた体に、気持ちよく酔いが回って来た。
 風が顔を撫でる。
 そして音楽。
 そんなに上手な演奏ではなかった。
 けれど、この演奏に関して、わたしは一切判断する必要がないのだと思うと妙にうれしい気がした。
 ふと、そのあまり上手ではないギターの音が、ぐさりと体に刺さった、気がした。そして通り抜けて行くような、奇妙な幻想を持った。音楽がわたしの胸に穴をあけ、外の風を通し始めたような気がした。
 空の色が、薄くなって行くのがわかった。
 日が暮れてきているのだ。周囲の物が見えにくくなって行く。照明が少ないのか、カフェの中はどんどん暗くなって行った。
 気がついたら、わたしはボロボロと涙を零していた。
 我慢していたつもりは無かったのに、どこにこんなに涙が溜まっていたんだろうと不思議なくらい、涙は流れ続けた。
 シャラシャラと流れるギターの音が、まるでシャワーのようにわたしの胸の中を洗ってくれた。そして太鼓の響きが、わたしの胸の中から凝固した悲しみのようなものを押し出してくれた。
 音楽のどこにも悲しみは無くて、むしろ乾いていた。それなのに。いや、だからいいのだろうか。
 わたしは椅子に寄りかかり、ビールを片手に、声も無く泣き続けた。つらい気持ちはなく、むしろ気持ちよかった。
 わたしはどこでもないところにいるような気がした。そしてそのどこでもないところに、わたしの中に溜まっていた水が、どんどん流れ出て行っているような気がした。
 胸につかえていたものが取れて行くのを感じた。自分でもなぜそれが今なのかわからなかったけれど、単にタイミングの問題かもしれない。
 ほんとうにびっくりするほど、わたしの目から涙が後から後から溢れてきて、わたしはそのままずっと、泣き続けていた。


散文(批評随筆小説等) 失恋に溺れて Copyright チアーヌ 2010-07-14 23:14:17
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