東京タワーで彼女が泣いていた事を僕は知らない
虹村 凌

 彼女が電車に乗り込む姿すら見ずに、僕は真っ直ぐに東京駅のホームを歩き出した。たった数秒前に触れていた、細く熱い肩の熱を、空の右手にぶら下げたまま、約束通り、振り返らずに歩いた。中途半端な優しさが、衝動的に振り返らそうとするのを抑えながら、彼女が乗る新幹線の横を歩いた。
 僕の進行方向とは逆に向いている階段をひとつやり過ごした。振り返らなければ下りられない階段を使う必要は無い。このまま進めば、振り返らずに下りられる階段がある。振り返らない約束を果たす事で、その夢は終わりを迎えるのだ。夢を見せたなら、最後まで夢を見せなければならない。中途半端は許されない。夢は、夢なのだから。

 残った約束は、何事も無かったかの様に日々を始める事だ。東京駅のホームで振り返らない事だけじゃない。0と1の情報の海でも振り向かない事が、彼女との約束なのだから。
 ただ一つ、その夢を幻覚じゃないと証明する事を約束して、僕たちは別れ、日常の中に戻るのだ。手の中から消えて行く熱をそのまま逃がしながら、うだる様な暑さのホームを、真っ直ぐ歩き続けた。彼女は、果たして座席についたのだろうか。それとも、僕の背中を見つめているのだろうか。それすらも、わからないままに歩いた。数秒前の抱擁で得た手の中の熱は既に失われ、東京の湿気を帯びた熱が指の間にまで入り込んできていた。

 たった三日間の夢だった。正確には四十八時間弱、もっと言えば三十時間にも満たないかも知れない、とても短い夢だった。その夢を見せる事が、僕の役割だった。その間だけは、僕らはかりそめの恋人であったのだ。それは契約に近かったのかも知れない。僕は彼女を愛してはいなかった。好きか嫌いかと聞かれれば好きと答えるだろうが、それは愛情では無かった。恵まれない彼女の境遇に対する同情や憐憫でも無かった。特別な存在、と呼べる感じでも無かった。
 興味はあった。人として、そして勿論、女として。単純に、興味と欲情でしかなかった。それは彼女も知っていた。彼女は僕に愛されない事も知っていた。僕の中には消えない影があり、また癒え切らぬ傷もあった。それ故に、彼女は僕に愛されない事を知っていた。特別な感情は無かった。ただ、少し特殊な位置付けの友人であったのだ。それは、興味と欲情にとって都合の好い言い訳にしか過ぎないかも知れないが。
 彼女は、彼女にとって僕は特別な存在だったと言った。だから、彼女といる三日間は、かりそめの恋人として夢を見せる約束をした。そして僕は、興味と欲情を満たす代わりに、彼女に彼女が望む夢を見せる事を約束した。

 果たして僕は、彼女に夢を見せられたのだろうか?彼女の言う「最低」な存在であり続ける事が出来たのだろうか?上手く笑えていたのだろうか?中途半端では無い優しさを見せられただろうか?振り向かない事でその約束は鮮やかに締めくくられたのだろうか?
 東京駅の階段を下りながら、様々な思いが脳内を駆け巡った。それでも、彼女が「決して自分を責めないで。愛されないと知ってて会いに来た自分が馬鹿なだけだから。だから自分を責めないと約束して。」と言っていた事を思い出して、考える事を止めた。約束は、守らなければならない。約束を果たせない事ほど、辛い事は無い
。その約束を果たせているのか不安で仕方無い。彼女は僕が不安がる事すら嫌がるだろうけれど。


 懐中時計、CD、服、サングラス。その夢を証明する物が部屋に散乱する。これは「つながり」なのだろうか?夢を証明する道具なのだろうか?それらを求める事はあっても、再会は望んでいないのだろう。再会は無いのだ。何故なら、それは夢なのだから。もし再び相見える事があるなら、それは…それも夢なのだろうか?とにかく、彼女は僕に愛されない事を知っていた。
 それは割り切った感情では無い。少なからず、彼女は僕に愛される期待はしていただろう。それ故に、僕は安易に口に出す事の無かった言葉がある。それを言えば、ほんの一瞬の安らぎを与える事が出来るだろうが、同時に何よりも深く傷をつけるだろう。
 彼女と会った事実そのものが、彼女を傷つける事はわかっていた。僕は何度も彼女に「あなたを愛する事は無いんだ。会う理由は、僕を好きだと言う人としての興味と、欲情だけだよ」と言い、免罪符を大量に買ったのだ。罪の意識が、少しでも薄れる様に。

 天国に一番近いラブホテルで四散したままの記憶が、いまだに整理出来てないでいる。それは夢だから、なのだろうか?


 彼女は綺麗だった。僕が今まで抱いたどの女性よりも、綺麗だった。それは単純に体系的な話である。僕好みの体型の女性を抱いた事が無い、と言うだけの事だが、とにかく彼女は綺麗だった。
 二回続けざまの、愛無きソドミーの行為の後に、僕らは実に古い作りの風呂に入り、そして眠った。不眠症であった彼女が眠れたかどうかは知らない。とにかく、僕は眠ったのだ。深夜、微かに意識が浮き上がり、隣で彼女が眠っていない事を知る。寝返りを打つと、彼女は何やら自分のカバンから何かを探しているようだった。僕は再び混濁する意識を睡眠の方に向けた。彼女は目的を終えたのか、狭い座敷に転がるベッドに腰掛けるのを、それの傾きで理解した。僕は背を向けたまま、混濁したままの意識で、彼女の気配だけを感じ続けていた。
「ねぇ、起きてるんでしょ?起きてるんでしょう?起きてるんでしょ!?起きてるんでしょう!?」
 彼女は唐突に僕に向かって叫んだ。朦朧としながらも聞こえたその言葉に、僕の心臓は一瞬で冷たくなり、覚醒を余儀なくされた。僕はゆっくりと寝返りと打ち、小さく相槌を打った。
「嘘つき…」
 彼女は俯くと、大きな声で泣き始めた。
「夜になると、おかしくなるの。ごめんね」
 彼女はそういいながら。

 黒目がちなその目は、時々深い穴の様だった。そして僕を不安にさせる瞬間があった。飲込まれそうだとか、見透かされているとか、そういう事では無かった。ただ、その深い穴の様な、黒い瞳に見つめられていると、とたんに様々な疑念が脳裏を支配するのだ。
 正直な話、僕はその夢の間に、彼女に殺されてもおかしくないと思っていたのだ。興味と欲情を持って彼女に会い、夢を見せるとは言え、彼女を傷つける事に代わりは無い。故に、彼女に殺されても文句は言えないと思っていた。僕のカバンにはナイフが入っていた。この時は、護身用では無い。彼女が、一思いに僕を刺し殺す為に持ち歩いていたのだ。それでも、生きたいと思う本能が、その存在を知らしめる事を躊躇わせていたが…。


 翌朝、喫茶店でうつらうつらとする僕に、彼女は言った。
「眠ったままでいいから、聞いてね。私、あなたに会って帰ったら、死ぬんだと思ってた。それでも、あなたが私を綺麗だと言ってくれたから、もう少し生きてみようと思うんだ」
 僕は、薄れ行く意識の中で、彼女が泣いているのを見た気がする。
 そう、僕は彼女を生かした事になる。彼女は自殺するつもりで会いに来た訳じゃないだろうが、夢は死をもって完璧となり、彼女はその運命を予感していたのだろう。しかし、僕が彼女を綺麗だと言った事で、僕は彼女に生きる事を選択させたのだ。それが正解だったのか、間違いだったのかわからない。もしかしたら、更に彼女を苦しませる結果に導いてしまうかも知れない。希望も絶望も無い、夢の終わった曖昧な世界を生かし続ける事をさせてしまったと言う事実が、僕の意識を少しずつ現実から遠ざけて行った。
 涙しながら彼女は僕の手を握り、僕は指先が濡れる感覚を味わいながら、短い眠りに落ちて行った。

 もうすぐで用済みになる、赤い赤い天空の城で、彼女は短冊に「生きろ!」と書いた。夢が終わったら死ぬ気だった彼女は、強く、強く生きる事を誓った。死んだら僕を悲しませるし、傷つけるし、僕は僕を責めるだろう。そんな事はしたくないから、と、彼女は言っていた。薄らと、スティングのEnglish man in NYが聞こえてきていた。
 僕は生きる事に希望を抱いてはいなかった。絶望していた訳でもない。それでも、生きる事は苦しむ事だと考えていた。だから、もう二度と生まれてくる事の無い様に。リインカーネーションから外れてしまいますように。
 果たして彼女をそこまで生きる方向に持っていった事が正しいのだろうか?彼女は夢の終わりに死ぬ事を望んでいた。僕は夢の最中で殺されても仕方が無いと思っていた。安いドラマの様ではあるが、それでも構わないと、僕は思っていた。嘘かどうかはわからない。それが夢だったのだから、今はそれが本当かすらわからない。


 同じラブホテルの違う部屋で、再び僕らは交わる。愛無き、行為。長椅子の上で交わり、果てて、そのまま僕と彼女は抱き合っていた。彼女は夜の不安定さを増して行き、彼女の日常に対する感情を少しずつ吐露していった。次第に大きくなるその負の感情を抑えきれずに、彼女は大声で泣き始めた。
「あんな奴等、大嫌いだ!」
 泣き喚く彼女はまるで少女の様だった。僕は彼女を抱きしめたまま、頭を撫でていた。過呼吸気味になった彼女を落ち着かせて、それでも尚、ずっと抱きしめていた。それすら、愛では無いのだ。対処でしか無いのだ。僕が不安定な時にされたら落ち着くであろう事を、僕はしているだけなのだから。彼女は同情を嫌っていたが、対処は別段嫌った様子では無かった。
 果てた後の綺麗な彼女を抱きしめたまま、僕は何を言っているかわからないテレビを眺めていた。彼女が落ち着きを取り戻すまで、ずっとそうしていた。それは、愛では無いからそうしていたのだろう。
 翌朝も、目覚めたての僕は彼女を抱いた。寝ずに退屈していた彼女は、化粧も着替えもばっちり済んでいたが、僕はそれをはぎ取って彼女を抱いた。綺麗だったからだ。綺麗だったから、欲情したのだ。愛が無くたって、勃つものは勃つし、出るもんは出る。僕はありったけの空っぽの愛を彼女に差し向けたのだ。同時に絶頂に達し、しばらくは曖昧な時間を寝転がったまま過ごした。行為の後に、その余韻を、味わっていた。愛がなくとも、それは心地よい、余韻だった。







 目を覚ますと、そこは埃臭いクーラーの聞いた部屋だった。いつもの見慣れた部屋だった。クーラーが低いうなり声を上げている。
 手の中に、既に熱い抱擁の余熱は無い。舌先も唇も、接吻の後の湿った感触を失い、乾き切っていた。彼女は家に帰れたのだろうか?僕は彼女の言う最低である事が出来たのか?夢を見せる事が出来たのか?振り向かない事でその夢は鮮やかに終われたのか?僕は上手く笑えていたのだろうか?
 何日か後に、0と1の情報の海で、彼女の日記を読んだ。そこには夢を見た事や、憎い程に夢が完璧であったと書かれていた。もしかしたら、僕が夢を見せていたのでは無く、夢を見せてもらっていたのかも知れない。僕が物語を読んだのでは無く、僕が物語を読んでもらったのかも知れない。最後まで優しかったのは彼女だったのだろう。最後まで僕を正しい距離に置いてくれたのは、彼女だったのだろう。彼女は僕を愛していた。僕が彼女を愛していない事を知った上で、彼女は僕を愛していた。だから、彼女は無駄に僕を苦しませる事無く、僕を適切な距離に置いて、僕を冷静にさせてくれていた。まぎれも無い、愛だった。彼女は僕を愛していたのだ。本当に、愛していたのだ。
 その瞬間に、僕の中に後悔と懺悔の意識が溢れ帰った。だが、彼女の「自分を責めないで」と言う言葉がそれをせき止める。その言葉すら、僕の意識を崩壊させそうだったが…。僕は彼女にとって特別な存在であった。もう二度と、誰かにこれほど愛される事は無いかも知れない。その愛の激しさから、彼女が病んでいる事を差し引いても、僕が生きている間に、あれほど愛される事は無いかも知れない。
 その彼女の愛すら夢であるかも知れない。ただそれを否定するように、僕の胸元には小さな懐中時計がぶら下がっている。

 何事も無かったかの様に日々を始める。東京駅で振り向かない事だけじゃない。0と1の情報の海でも、僕は振り返らない事を約束したのだ。でも、たった一度、それを証明する事を、約束した。それはすぐに埋もれてしまうかも知れないけれど、僕の少し特殊な位置付けにいる友達の為に、僕の為に、それは果たさなければならない約束なのだ。これで、夢は終わるのだ。悪夢だったか、淫夢だったのか、正夢だったのか、ただの夢だったのかはわからない。夢であった事は事実なのだろう。

 その夢を見せてもらっていたのか、見せていたのか、物語を読み聞かせてもらっていたのか、読み聞かせていたのか、それすらわからなくなってしまった、その日々の終わりに。


散文(批評随筆小説等) 東京タワーで彼女が泣いていた事を僕は知らない Copyright 虹村 凌 2010-07-13 19:29:57縦
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