青い二等辺三角形
光井 新

 愛なんです。
 僕にとっての愛、それは外柳っていうんです。その外柳っていう苗字は確かなんですけど、下の名前は知りません。ただ僕としては、外柳の下に続く名前が理奈だったらいいなと思うんです。外柳理奈、うん、なんとも愛くるしい名前ではありませんか。
 僕の見る限りでは、年はおそらく十八から三十二、ひょっとしたら十六かもしれません。でも僕にとって、おそらくは彼女にとっても、年なんて関係ないんだと思うんです。母のように穏やかで、少女のように可憐な、そんな不思議な女性、それが外柳理奈なんじゃないかなって。
 今思えば、彼女と出会った時からずっと、僕は不思議の国をさ迷っているような気がします。彼女を初めて目にしたのは、上野駅屋外のエスカレーターでした。三段先を行くミニスカートの彼女、その脚と脚との間に、僕は東京タワーを見たんです。それはパリのエッフェル塔でもあり、スカイツリーでもあり、昔見た近所の鉄塔でもある不思議な二等辺三角形でした。エスカレーターに乗りながら、僕はずっと青い二等辺三角形の頂点を見つめていました。まだ顔も知らないし、パンツを見てやろうといういやらしい気持ちなんて微塵もありませんでした。気がつくと僕は、彼女の不思議な世界に迷い込んでいたんです。あの時からずっと、今も。
 エスカレーターを上り終えると、彼女はあるレストランへ入っていきました。従業員とのやりとりの様子から、どうやら彼女もその店で働いているのだという事が窺えました。そして彼女は、従業員達としばらく話した後、店の奥へと消えました。
 一方で僕はといえば、十分だったか二十分だったか、入ろうか入るまいか、店の入り口から少し離れた場所で右往左往しながら、一つの賭けをする事を思い付いていたのでした。高校生の頃、金属バットでメタメタに壊した近所の神社の賽銭箱、その中からキュピィーンッと見つけたギザ十、十年間使わずに財布の中に入れていた宝物のギザ十、それを親指で上に弾いて宙に跳ばす、下には幅五ミリ位の排水溝が、運良く横向きに落ちればセーフ、運悪く縦向きに落ちればアウト。セーフなら店へ、アウトなら丸坊主。
 ピチュウィイェーン……ポゥチュアャッアクエリアス。
 僕はコンビニにいました。バリカンを買うためにコンビニにいました。しかしコンビニにバリカンは売ってなくて、代わりにカミソリを買って、坊主ではなくスキンヘッドに渋々妥協しました。上野公園で剃髪し、綺麗さっぱりした頭と同じように、これで心も清々しくなった、そうに思い込もうとしました。けれども僕は、どうしても彼女の事が忘れられませんでした。まだ顔も名前も声も知らなくても、脚線美さえ知っていれば僕が彼女を愛する理由としては十分だったのです。
「おすすめは何ですか?」
「オムライスです」
 ああ妖艶な声、ああ妖艶な顔。この雌豹だったらいいのにな、僕の愛する人がこの雌豹だったら、そう強く願いながら、僕はテーブルの上のスプーンを落としました。
 ピュンシュンぺェンウァワン……チェンリンストッファブリーズ。
「お客様、大丈夫ですか、新しいスプーンです」
 苛立たしいしゃがれた声、小憎らしいつぶれた顔。蛙女が邪魔をする。作戦失敗、こうなったらもう土下座するしかない!
「ごめんなさい!」
「お客様、どうされました?」
「とりあえずごめんなさい!」
 罪悪感を圧し殺して脚を見る。良かった、本当に良かった、蛙女は違う。次!
「ごめんなさい!」
「え?」
 雌豹も違う。
 メスブタも違う。泥棒ネコも違う。苺柄のあの子も違う。フロア中土下座して回っても、彼女は見つかりませんでした。
「どうしたの?」
 厨房から一人の女性料理人が出てきました。ウェイトレスじゃなかった! この人に間違いない! うさぎみたいなこの人だ! ていうかもうこの際、この人じゃなくてもいいからこの人でいい!
「ごめんなさい!」
 ピキャカチャズィジゥーッ……ブァスァズリュッエリエール。
 あああ、この脚だ、僕はこの股から生まれてきた。見上げると僕を優しく見つめる瞳、母さん。懐かしい母さんの胸、そこにはネームプレート、外柳と書いてありました。外柳……理奈ちゃん、逢いたかったよ。
 愛ですよ、愛。だからおまわりさん、僕は怪しい者じゃないんです。痴漢でもストーカーでもなんでもないんですよ。愛、それは罪だというのでしょうか。おまわりさん、あなたがもし、愛が罪だというのであれば、僕は罪人になっても構わない、罪人になろうがそれでも愛に生きる、それが僕であり人間であり、愛なんです。


散文(批評随筆小説等) 青い二等辺三角形 Copyright 光井 新 2010-07-08 01:58:16縦
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