マテバ、ウチヌカレル
虹村 凌

ティーンの頃のあいつの匂い、肌触り、温度、その融合した「それ」を知らずに生きている事が悔しくて仕方無い。あぁ、どうしたって悔やまれるあの夜。多分、僕は20代のあいつの匂いも、肌触りも、温度も、何も知らずに生き続けるのだろう。悔やんでも悔やみきれない二つの夜を引きずって生きて行くのか。
 あいつを愛してる訳じゃない。愛なんかじゃない。ただ、あの時の僕を受け入れてくれたからこそ、いつまでも受け入れてもらえると甘えているのだろう。美しさに惹かれたのも事実だけれど、甘えたいのだ。深く、甘く、退廃的に、希望的に言えば、ナメクジの交尾の様に官能的に、絵の具の様に溶けてしまいたかったのだ。続きも、未来も必要としないでいたかったのだ。永遠なんかじゃなく、世界になりたかったのだ。
 夢に現れたあいつは病院のベッドの上にいて、腕にいくつかの管を通していた。僕は、昏睡していると思われるあいつの手を握り締めて、早く治癒するように、何なら僕が代わりになっても構わない…と呟きながら震えていた。あいつはニヤリと笑って起き上がり「ふぅん、私の事、そんなに好きなんだ?」と言ってベッドからするりと滑り落ちる様にどこかへ行ってしまった。僕はフォローしようとメールを打ち始めた。何故だかは分からないけど、手段がそれしか思いつかなかったらしい。「世界で一番美しい君へ」と打ったつもりが、変換候補のミスで「世界で一番鬱陶しい君へ」となってしまい、しかもそれを背後から歩いてきたあいつに見られてしまった。あいつはニヤニヤと「私ってそんなに鬱陶しい?」と聞く。僕は「違うんだ、本当は世界で一番美しい君へ、と書こうと思ったんだ」と言う。「嘘」とあいつは笑いながら言う。「本当だ、僕が実際に見た女の子の中で、君が一番綺麗なんだ」と言うと、少し嬉しそうに笑って、再び何処かに消えた。僕は、彼女を待てば…。






 自転車で近所を走り回り続けて、飛び込みでバイトを探し続けて、とうとう二駅先まで来てしまった。中目黒駅近くにあるそのコンビニは、大手のフランチャイズ店で、最初に対応した店員はやけに白髪の多い、童顔の滑舌の悪い男だった。翌日に面談した店長は、やけにフランクな態度で、即日で採用が決まった。
「志村君いいねぇ、うん決めた。採用するよ」
 店長はそう言って僕の方を叩いた。
 翌日から店に出勤した。店長は店員やアルバイトと会う度に、新人の僕を事細かに紹介して、お互いを印象づけさせてくれていた。その流れの中で、僕は彼に出会った。
 その男は、バットマンの映画に出て来るペンギンに良く似た、醜く太ったせむし男だった。歳の頃は30半ば、薄くなった毛髪をべっとりと後ろになで付け、その体型の男特有の体臭を纏い、小さな唇を常に湿らせて、腫れぼったい目の上に指紋だらけのメガネをかけている彼は、僕が女性だったら生理的に受け付けないであろうタイプの男であった。
 僕は彼が好きでは無い。別に悪い人じゃないのだ。愛想もいいし、仕事も出来るし、親切だし、ちゃんと会話だって出来る。でも、その醜さを僕は受け入れる事が出来なかった。あまりにも醜悪なのだ。
 醜悪である事は罪だ。僕が美しい訳では無いが、彼程醜悪では無いくらいの自負はある。いや、その心根は十分に醜いと言う自覚はある。その上で尚、彼の醜悪さを許容する事は出来ないでいる。
 バイトを始めて二ヶ月程経った頃のある日、他の店員から彼…ペンギンに似た醜悪な男…の誕生日パーティーをカラオケでするから来ないか、と誘われた。二ヶ月も経てば大分打ち解けているし、誘わない方が不自然と言うのも頷けるが、別段彼の誕生日を祝う気にはなれない。興味があるフリをしながら、都合良く断れる功名な言い訳をひねり出そうとしてい僕に、その店員は意外な事を言った。
「まだね、そんなに人数を集めていないんだ。何せ、一昨日思いついた事でね、森島さん…醜悪な肥満男の名前だ…の彼女とメールして、昨日の夜に決めた事だから。だから、まだこの店の店員とかバイトには声をかけてないんだよ。志村君が最初なんだ。だから、いい返事期待してるよ」
 茶色いロン毛男の鹿野はニヤリと笑って、事務所に引っ込んでしまった。  最初に誘われた事などはどうでもいい。強烈に僕の興味を引いたのは、醜悪な森島の恋人の存在だ。どんな人物なのだろうか?下衆い好奇心が頭をもたげ、僕は事務所に向かって茶髪ロン毛の鹿野に行く旨を伝えた。

 醜悪な森島の恋人が醜悪であるとは限らない。その可能性もゼロでは無いが、それでは面白味が無い。所謂「美人」では疑念の余地しか思い浮かばない。茶髪ロン毛の鹿野も妻帯者であるが、醜悪な森島の恋人が美人であり茶髪ロン毛の鹿野との存在としての匂いが近しかったりしたら、それほどつまらない話は無い。それは森島のドラマでなくてはならない。歪な好奇心が、僕の森島に対する愛想を良くさせた。少しだけ驚いたようにしていた醜悪な森島は、それでも何時ものように仕事を続けていた。

 僕は家に帰ると、まず今日の事をパソコンに向かっている女に報告した。この女も、お世辞にも美麗とは言い難い体型をしている。本人にも自覚があり、それなりに改善しようと努力しているようだった。醜悪、では無い。かわいらしさは多々ある。だから醜悪では無い事の証明にはならないが…。
 パソコン画面に向かいながら、彼女はあまり興味無さげに聞いていた。それでも話しかけ続ける僕にうんざりしたのか、ため息を漏らすと、一言だけ放り投げるようになげかけた。
「あなたにだって恋人がいるのだし、何の不思議も無いじゃない」
 そりゃそうだ。俺だってそう思うが、醜悪な森島の恋人と言う人物がどんな人なのか気になって仕方無いのだが、あまりにも興味が無さそうな彼女に話しかけるを諦め、僕はさっさと眠ってしまう事にした。
 僕はあいつの事を考えた。白く、魅力的を通り越して悪魔的ですらある手足に、真っ赤なトマトソースをぶちまける、夢、妄想。欲しいのは、綺麗な水と拳銃。35.7mmの銃口から飛び出る、蛇苺達は、着地点を少し逸れていく。不明瞭な形を雲の隙間を縫って、晴れ間まで漂う。そして、陽光に焼き殺されてしまう、喰い散らかされた音符達。届かないのだ。
 そう、想像力、それは予感と言うにはあまりにも弱く、過信と言ってもまだ足りないくらいの、悪寒。恋焦がれるからこその、予感、そして確信。吐き気すらこみ上げてきそうな想像を強いられる。自分の想像力を恨みながら、僕は静かに、意識を暗い部屋の中に溶かして行った。黒い想像を、常夜灯で希釈するように。






 明るく盛り上がる部屋とは対照的に、僕の心は重く沈んだままだった。膨れ上がった好奇心の分、それが破裂したあとの残骸は、カラスがあさった生ゴミよりも酷い有様であった。ギリギリの愛想を振りまいて、外面を取り繕いながら、無様に笑う。
 森島はしきりに携帯を開いては、彼女との連絡を取り合っている。吐き気に耐えきれず、僕は便所に駆け込んだ。ドアを閉じた部屋の中から、誰かが歌う声が聞こえる。長い廊下に様々な音が反響し、不気味な不協和音を鋭角で反射させながら鼓膜に突き刺さる。
 トイレに入るとそのまま吐いた。何も食べていない所為で、ひとしきり吐いても、ネバついた黄色い液体が、口元からだらしなくぶら下がるだけだった。洗面器には幾つかの黄色いシミが垂れ落ち、すえた匂いを放っていた。
 ふと見上げた鏡の中の僕の目は、血走った眼球内で毛細血管が切れたのか、すこし緑がかって見えた。口をゆすいでから、煙草に火をつける。メンソール成分で口の中が冷やされる所為か、胃液の味が色濃く再現された。ツバを吐き捨てると、幾分マシな気分になったので、ようやくの事でトイレを出た。


 部屋に戻ると、みんなが僕の帰りを待っていたかのように一斉に僕を見た。
「志村君、遅いよ!大丈夫?紹介するね、これが僕の恋人の」
 森島が嬉しそうに早口で説明するのを聞かずに、僕は彼の横にいる女性を見ていた。まるで体温を感じさせない白い肌は、まるでおとぎ話に出て来る魔女のようであったが、その肌にはシワひとつ見当たらず、なめらかな氷のようであった。その氷のような肌はまるで炎のように鋭く、僕の目を射抜いている。
 柔らかい微笑をたたえた彼女は、少しだけ頭を下げて挨拶をした。
「こんにちは、志村さん。はじめまして」
 聞き覚えのある声が、えぐり取る様に鼓膜に潜り込んできた。
「はじめまして」
 僕は座ると、ゆっくりと目を閉じた。醜悪な森島とその彼女が、並んでいるのを見て、黄金費に近いバランスを感じた事を後悔しながら。


散文(批評随筆小説等) マテバ、ウチヌカレル Copyright 虹村 凌 2010-06-26 10:57:10
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