方丈記
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方丈記

昨夜、方丈記というのを読み、なかなか感慨深いものがあった。僕は情緒的に奥の深いものが嫌いで、理知的なでっかいパイプオルガンみたいなものが好きなだけにこれは趣味ではないとう先入観があってなんとなくとっかかれなかった。
それからちょっと前に、折口が隠者は女房の代替えというような話を読み、なるほどなあと思ったけれども筆の運びとしては美しいとは思えなかった。これは僕の趣味が半分、無知が半分の無見識なので、ただ好きじゃなかったということだ。ただ、内容については頷かされて、兼好などはそんな感じがするなあと思う。ちんぴらを人の理想とする僕としては兼好はスマートな人で話も僕に言わせれば軽薄だ。これも、これは僕の悪趣味と無知が故のことだ。そんなちんぴらの僕だからとっかかれなかったということもある。

方丈記を実際に読んでみると筆の運びに力があり読まされてしまう。一気呵成にと神田(秀夫)の解説にあるが、もしそうだとすれば書く前の思念には強いものがある。構成としてはきちんとしている。戦争に触れないというところ、これは考慮に値する。書名からして住まいにこだわるところは上記の僕の先入観もあながち事実の一つの側面を見ていることになるかもしれない。大福光寺本という古本が長明直筆だろうと神田が言うが、考証する力を持たない僕が言うことは何もないが、その筆致を見るとなるほど唸らされるものがある。僕はそういう学者が持っている情熱というものが大好きである。理知的な構築も世紀の大発見も大切であろうけれど、音を鳴らす千本のパイプのオルガンのブーブーは神様だと思うのだ。そういう楽器を弾く人がいる。

さて、そういうちんぴらのぶった話は耳が腐るので、分相応に話せば、読んでいたとき、ある下りに思い当りがあった。その思い当りというのは、

鴨よ:芸はこれつたなけれども人のみみ転ばしめむや鴨の水掻き

とかというのだ。転ぶというのがおもしろいなとは思ったけれど何てこたあねえだろう。石原大介という人だが、高卒か高校中退のお兄ちゃんだった。こういう不遜な言い方をする奴を世間は憎むだろう。僕は、別にそれでいい。このようにこの兄さんに不遜な態度の僕だが、じつは、このパクリ、パくった場所がいい。有名な書き出しでもなく、騒がしい天災でもなく、転調してぐっと情感が溢れてくる方丈の終わり、琵琶の秘曲、流泉が水の音に操られるという箇所で、おいおい、パンクがキミのなんのさって箇所だ。昨日の晩になって馬鹿にして読んだものに馬鹿にされて感動している僕の方がどれだけ何てこたあねえだろう。人間生まれたからには100円ライタ―のおあ兄ちゃんでありたいと思う。

昨晩読書中ふと思い出したこの人はもう逝ってしまった。

一人だけ切符の買えぬアホがいてカスタネットで病にロック

何てこたあねえけれど、これを見たときにはずいぶん泣いた。別に先立たれたれたからというわけじゃない。このくだらない文言には今でも泣ける。僕をスズメと同じにしてくれるな。会ったこともない。100円ライタ―がきらりと光る。


散文(批評随筆小説等) 方丈記 Copyright m.qyi 2010-05-05 16:49:21
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