観照なのか過干渉なのか不感症なのか性感染症はない私 ;
salco

母さんがオナベをしてブクロに住んでくれた
小林商事つぶれたろうとヘッセと安室ちゃん
古着屋の需要はまだ高い赤耳のリーヴァイス
(後略)
                猿渡群馬

この詩を読んで皆さんは何をお感じになるだろうか。
季節は冬だろう、木枯らしの音は何とか聞こえる。舞台は池袋らしい。北口だろうか。
しかし車輪の下で安室ちゃんが小林商事に思いを馳せているとでも言いたいのだろうが、
そこから先が全く伝わって来ない。
小林商事の業態は何なのか、不動産屋なのか古着屋なのか、それすら説明がない。現代
の若者が穿き古しのセコハン(死語)なんぞにあたら大枚をはたく、その倒錯的価値観
についても何ら言及していないのである。
とりわけ大きな問題は、何ゆえ母親がオナベなのか。この世界不況下にわざわざどうし
て性のアウトサイダーへと身を転じるのか、その際ホルモン治療は受けたのか、その心
理背景や状況説明も全くなされていない。
現実的には、オナベほど金にならない職業もないのだ。新宿2丁目では店主独りで切り
盛りしているカウンターだけの飲み屋が殆どで、ホストクラブやおかまバーのような華
に欠けるため客入りも良くない。そんな経営状態でパートタイマーなど募集する余裕が
あろう筈もない。全く現実を把握していないとしか言いようがないではないか。
つまりこの詩は作者の妄想に基づいているのだ。同性愛者のセルフ・アイデンティティ
ーを余りに軽視しており、驚くべき事には、明らかなパクリである。


さて次の詩。

(前略)
スーさんが夜逃げをして手形が不渡りに
焦げつきそうで爪燈そうと切羽が詰まったの
不可思議なことには闇金融 督促の電話なく

                 去る場$・ダレ?

言葉のリズムを優先して本人は倒置法を用いたつもりだろうが、普通は不渡りを出して
から夜逃げするのであり、これも順序が滅茶苦茶な第2連を正しく並べ直すと、 
借入金の返済が焦げついた → 切羽詰まった → 爪に火を燈す生活が始まった
は前段に来なければならないのに、起承転結まで逆では本末転倒で支離滅裂の印象しか
与えない。更には、闇金融が督促しないなど絶対にあり得ないことである。
弁護士や司法書士も介入しない内から、窮迫につけ込んだ違法金利を諦める悪党が一体
どこにいるというのか。百歩譲るとしても、星明子よろしく電柱の蔭に潜んでいるかも
知れない可能性まで否定し去ってよいのか。
これは安直なハッピーエンドの安堵感を以て世間知らずな読者の共感を得ようとする浮
薄な意図が丸見えな、しかも悪質なパクリである。
一体、現代詩はどうなってしまうのだろうか。猿の端くれとして私は戦慄を覚える。


最後に娘道成寺笊子さんの散文、「保守派の母さん」に触れたい。

米びつこけたら皆ほほほぼこけた/朴歯もちびた朋輩がエホバの証人訪ね行き…
郷里に伝わるこんな呪文が頭にこびりついた母はある日、西友仙川店で魚沼産コシヒカ
リ10?を万引きしようとした。家にななつぼしほぼ5?を残しながらである。
ところがその頃パンクだった母はエプロン全面を安全ピンとカミソリの刃で飾ってい
た為、担ごうとした途端に袋前面が破けて出口のマットを踏むまでにあらかた流れ出て
しまった。
それで母はナンシー・スパンゲンへの憧れをふっつり断ってしまったのだそうだ。
「本当にどうかしてたわ私」
と、以来はデスメタに転向して首コルセットを巻き、マーティー・フリードマンと同じ
髪型にした母は今も事あるごとに述懐する(後略)。

ひと言だけ。こんな馬鹿げた散文に感じてポイントを入れる人達にこそ良識を問いたい。


ところでね、私のある作品が某氏の極めるパロディー・シリーズの猿真似であり、彼の
人生哲学に裏打ちされた、優れたオリジナリティーに比べると全く貧相で内容がないと
のご指摘を方々から受けた。
謂れなきその批判は甘んじて受けよう、私も男だ。いや一応女だが、事実パクった。
しかし人を指して「貧」とは一体何事だ。そこが妙に引っかかる。
不足は悪なのか。それは嘲笑に値するのか。第一、他人を嗤う、そんな資格が誰にある
と言うのだ? 私だって好きで貧しい現在形になったわけではないのだ。
それとも貧乳を愚弄するおつもりか。見た事もないくせに? 
全くお笑いぐさだ。こう見えても私はあの大江健三郎氏と何度かお会いし、すれ違った
経験すらある。ノーベル文学賞受賞後にも、である! 御子息の作曲家・光氏もお見か
けしたし、ゆかり夫人には接客さえした。言わずと知れた故・伊丹十三氏の実妹である
と共に女優・宮本信子氏の義妹である。
何せ「飼育」から「恢復する家族」までを読んで来た私だ。「万延元年〜」は未読に
せよ、小説の方はブレイク頻出あたりからさっぱり理解が及ばないので、余りに畏れ
多くてサインを貰おうという気も起きなかった、実に謙虚な私であった。

それだけではない、ボストン交響楽団音楽監督時代のマエストロ小澤とは、同一空間で
うどんを食す同時性をも味わった仲である! マスカラもせぬぞんざい化粧の後悔で賞
味の実感を忘失した、実に自意識過剰な私でもあった。
他にも黒澤明監督、三船敏郎、張本勲、松田聖子、石田純一夫妻(第2回婚姻時)、
三浦百恵、水谷豊、所ジョージ、ジョルジオ・アルマーニの各氏と枚挙にいとまがない
。あまつさえ宍戸錠御一家も目のあたりにしたことがある。
不運にもその折、「ドジョウの中で、1匹だけ頬が膨らんだドジョウがいました。さて
それは誰でしょう、宍戸錠」という類のダジャレが流行っていた。洋菓子店でバイトし
ていた高校生の私は実物を前に、トングのケーキを落とさぬよう死ぬ思いをしなければ
ならなかった。氏が詰め物を除去なさる遥か以前だ。つまり貴重な頬の目撃者なのである。
極めつきは素人の方だが、時の総理大臣・鈴木善幸氏に瓜ふたつのおばさんで、鼻の頭
に5?ほどの毛が1本生えており、大切にしておられたのだろう、それが下唇をかすめ
て呼吸にそよいでいるのだった。私はパン屋でバイトしていたが、トングのパティスリ
ーを落とさぬよう死ぬ思いをしなければならなかった。私の教唆を耳にしたが為に、傍
らでレジを打つ同僚のミセスは赤面に涙さえ流していたものである。

ここで私が自慢したいのは、唇を噛んで肩を震わせるといった自己犠牲では必ずしも
なく、貧乏でも高級住宅街の末端に住んでいたという事実なのだ。事実こそは雄弁だ。
しかも自ら贖ったわけではない、親の家屋である! 更には母子家庭で親の苦労と疲
労困憊を間近に見ていながら、ローンの支払いに寄与したことも一切ない。シーズン
ごとの赤点を身にまとう労を怠らず、連日のように遊び呆けていた。自分で言うのも
何だが、実に見上げたスネかじりぶりではないか。
よって、いくら私が敬愛してやまない先達の手法を剽窃したからと言って、貧との謗り
を受けるのは見当違いにも程がある。何故なら当時から現在に至るまで、私は一度とし
て金に困った事はないのだ。足るも足らぬも八卦に非ず、勝手である。それを余人が言
い立てるのこそ余計なお世話というものだ。

楽しくて悪いか、うれしくて悪いか、恋をして愛して、哀しくて寂しく、儚くて空しく
薄い構造が悪いか。そんな他者への感応は怠慢惰眠であるのか。将来を世界をヒトを憂
えるには、それらへの否定を必須とするのか。鳥に首輪を着ける事の意義は何だ?
個の人間性も、社会集団としてのそれも、然るべき局面を突きつけられた時に初めて問
われるのではないのか。机上の空論、方法論ではなく、その時人間として生まれたおの
れに、或いは何者かに恥ずかしくない行動を示せばいいんでねえのけ。
ミャンマーで殺されたジャーナリスト、転落の泥酔者を救出した韓国人留学生とカメラ
マン、マザー・テレサやヴェトナムの「バーベキュー」坊主達、コルチャック先生とコ
ルベ神父、数多の名もなき非転向獄死者、伴天連信者。幸福な王子と足元のつばめ。
実に無数の、無名の人々が己が生命を賭して語って来た行為こそが思想の結実点では
ないのか。


散文(批評随筆小説等) 観照なのか過干渉なのか不感症なのか性感染症はない私 ; Copyright salco 2010-05-04 15:09:10
notebook Home 戻る