メーデー
salco

ブラウン管に映る天皇裕仁をテンちゃんテンスケと嘲罵するほど軍国少年
であった父は明らかに左翼で、党から除名されても宮本議長(当時)の不
撓不屈や不破書記長(当時)の才気煥発に敬服やまず、一般紙の他に赤旗
を購読するほど未練がましい共産主義者だったので、メーデーをほぼ愛し
ていたと言っても過言でない。
妻の営業許可証に便乗したささやかな自営業者であれ、プロレタリアート
なる階級が存在と権利を主張するところの祭典を寿ぎに代々木や日比谷へ
よく出かけたものだった。今から思えば若かりし日へのセンティメントも
多分にあったのだろう。

色様々な群集と巨大な幟旗で埋め尽くされた会場にはオバQや大好きなジ
ャングル大帝の無断借用なども散見されたものの、足元の芝と垣間見える
青空だけが私の背丈に近しい世界で、団結勇躍というよりのどやかな連帯
感が四囲を領する半日は、わけもわからず手を引かれて風船をもらい売店
で何がしか飲食物を買ってもらう、楽しくはない大人達のジャンボリーで
しかなかった。
それでも親の愛情とワンセットに供与される影響という意味では思想的感
化を無批判に受けていたので、小学生の頃は5月1日が名を冠しながら祝
日ではないのを理不尽なことと思ったものだ。「都民の日」が多摩川や荒
川を境にして無効化する仕組みが人体の温度差にも存在することを知らな
いが故の、それは思考力の未熟であった。
とは言え、議会制民主主義が現状に於いて最良の政治体制であり資本主義
が人間の実勢(私利私欲)に則した社会形態であるように、労働搾取の糾
弾と生活向上を目指す権利要求も人間社会に欠いてはならない、やはり人
権の牙城なのだ。雇用関係に楔がなければ雇用側の支配性は果てしなく増
長し、使役される側は精神さえもたちまち奴隷や家畜の域まで堕ちる。

私が小学2年時の東芝製24型カラーテレビに続き、父はその3年後パイ
オニアのステレオセットを買った。木目家具調でプレイヤーの下段が麗々
しいキャビネットになった、重厚な割にオプションはAM/FMラジオと
音声出入力端子だけという奴である。
母はさっそく大好きなベートーヴェンの第五をカラヤン指揮ベルリン・フ
ィルで買い、私は自分用に赤い風船の「翼を下さい」と、父を喜ばす為に
「鉄道員」(ミッシェル・ピコリ! レアリスモ! プロレタリアート!
)と「アラビアのロレンス」(大英帝国ブルジョア階級の反骨漢!)のオ
リジナル・サウンドトラックのシングル盤を買った。姉は確かカーペンタ
ーズのベストアルバムだったように思う。もしくは井上陽水のシングル「
心もよう」だったかも知れない。兄や弟のは憶えていない。

その後数年経って父が自分用の音楽に何を買ったかと言うと、こよなく愛
する青江美奈やディック・ミネのムード歌謡ではなく、「インターナショ
ナル」などの運動歌が入ったプロレタリア・ソングのボックス入りだった
。3枚か4枚組で、1曲だけ、「♪が〜んばろお〜、勝利の日までぇ〜」
という合唱の歌い出しを憶えている。実に恐るべきアルバムだった。
軍歌を毛嫌いした父の、4分の4拍子と煽動的なメロディーラインが軍歌
に酷似の音楽性は嗜好と言うより主義の表明に過ぎず、政治思想を基に作
られた芸術がいかに稚拙で不毛な表現に終わるのかを実証しているだけだ
った。さすがに大枚はたいた本人も、ターンテーブルに2、3度乗せて蔵
入りにせざるを得なかったようだ。
お調子者の父は私に似て、いや私が父に似ているのだが自意識過剰だった
のだろう。言わずもがな音楽は耳と心で聴くもので、これ見よがしのイデ
オロギーなど音響を伝える針にもならぬどころか審美眼を狂わせる弊害で
しかない。寧ろ父がごくたまに古いソニーのオープン・リールで聴いてい
たロシア民謡の方が、CCCPを超越した民衆的哀愁に於いて琴線に触れ
るインテルナシオナァルだったに違いないのだ。

しかし父も懲りない人だった。若き日にマルクスやレーニンの著作をどれ
ほど読解する知力・忍耐力を有していたのかは知らないが、小林多喜二を
敬慕してやまない読書傾向そのままに、ある年ソヴィエト連邦の成立に関
する本をセット買いした。
文藝春秋などはよく読んでいたが、4人もの子に買い与えるので手一杯な
ところ新刊本をまとめ買いするなど前代未聞の贅沢で、十数冊のそれをス
チール本棚に並べて一人悦に入り、読んでは一人悦に入っていた。
70年代は米ソ冷戦の核開発泥仕合の言わばピークで、ネバダやセミパラ
チンスクで水爆実験が繰り返され、成層圏にひしめく放射能が雨に混じっ
て頭が禿げると小学1年生をも怯えさせ、ニクソンとブレジネフがまなじ
りを決した悪党づらを連日テレビにさらしていた時代だったので、アメリ
カの舎弟として高度経済成長をひた走る日本では子供心にさえ、ソ連とい
う国は鉄のカーテンの向こうに謎めいた恐怖政治を敷く「悪の枢軸」と思
われた。
スターリン時代から続く思想弾圧は西側へ伝えられて久しく、物資の恒常
的不足と共にKGBの暗躍と人権蹂躙の実態は続々と亡命する文学者、芸
術家、科学者らによって証言されていたにも関わらず、そんな中でも父は
頑強に共産主義を翼賛し続けていた。
既に巨大な枢軸を取り巻く同盟国の中では20年後に向けゆっくりと瓦解
しつつあった政治体制は、ボルシェビキのロシア革命に対するロマン同様
、父にとっては郷愁に等しくセルフ・アイデンティティーに深く結びつい
ていた為に現実を直視し得なかったのだろうか、西側ジャーナリズムが日
々伝えるその内実について父が言及することはなかった。


さてそんな父が一人寂しく炬燵に下肢を突っ込んだまま死体となって発見
される時が来た。
鈍角くの字に硬直していたため葬祭業者に30分ほど悪戦苦闘を強いたと
いう亡骸は、多摩斎場の霊安室に4、5台置かれた棺の、簡素な白木のに
入っていた。ガラスの小窓越しに見る顔に死斑はなかったが、黄色かった
。蝋で作り直したような皮膚にはちりめん皺が寄って、少なくとも死後4
日は経っており水分が蒸発していたのだろう。こんなに顔が小さかったか
と思ったほどだった。
鼻が悪く鼾をかいていた昔通りに口を開けて、ただ歯の無い、そして死ん
だ口中は底知れぬ暗黒のようで、かすかな死臭が鼻先に触れた時、私は窓
から顔を跳ね退けた。

皮肉にもそれはソヴィエト連邦崩壊のわずか1、2年前だったが、長男は
そんな父に対する餞別として、マルクスの「共産党宣言」文庫上下巻を告
別式の朝に書店で求め棺に入れた。幼時より女児偏愛主義の親父から猫か
わいがりされた覚えもないのに、男子というのはひどく優しい。弟は弟で
、初々しい家庭に父を招いては初孫と触れ合う機会を与えていた。
思えばこうなる3、4年前に、電話もない廃屋で体調を崩した父の救助要
請を受け妻宅に連絡を入れてくれたのも新聞配達員の、朝日か赤旗かは知
らないがやはり男性で、そんな父を迎えに車を走らせ自宅へ運び込んだの
も、やはり母とその男子だったのだ。
命ある父をとうとう許せなかった私は、菊やカトレアの芳香に埋もれた遺
体の傍らに謝罪の手紙とパパの娘だった頃の写真を1枚入れ、嘆きやまぬ
姉の入れた日本酒の5合瓶は細心な焼き場職員によりつまみ出されたが、
ウィスキーの小瓶の方は昇天しおおせたと見え、父の大腿骨を見事な桜色
に染め上げたのだった。
どれも珊瑚の死骸のように乾き、かわらけのように軽くなった骨の中で、
とりわけ耳孔を残した側頭部の薄片は、むかし砂浜で拾った小さな貝殻を
思わせた。これを耳に当てたら海風の音がするんだろうな、と思った。
それでも上背があり強壮だった父の骨は、係の人が讃嘆しつつ掌底で押し
込まないと壷に収まり切らないほどではあった。
そしてその日初めて、生前ソ連の現状にようやく社会主義の行き詰まりを
認める発言をしていたと兄から聞いた。

全く誤謬の多い男であったが、そんな父が秘匿していた知性のかけらは愛
おしく思う。そのようにメーデーは昔から私にとって赤ではなく、5月の
空色で記された日だ。


散文(批評随筆小説等) メーデー Copyright salco 2010-04-29 21:12:28
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