薄く、淡く、確かに。
灯兎

 「ねえ、嘘をつくってどういう心境なのかしら」
その問いは真夜中の公園にとてもふさわしいものであるように響いた。それはここが春の盛りをすぎて眠りこんでいるような公園だからでもあり、僕と彼女のあいだにある距離が難しいものになってきているからでもある。
 「君は嘘をついたことがないの?そのときの心境と同じようなものだと思うけれど」
 「そんなのあるにきまってるじゃない。けれど、私は一度ついた嘘は死ぬまで抱え込んでいくつもりなの。あるいは本当にどうでもいい、こどもの悪戯みたいな嘘ね。」
 「つまり君は世の中にあふれている嘘の多くが、いったいどんな心境から生まれたものか理解できないということなのかな」
 彼女は花弁をひとつ拾い上げて、それをてのひらで弄んでから、頷いた。

 自慢ではないけれど、僕は嘘つきだ。僕の嘘には彼女があげたような嘘ももちろんあるし、誰かとの関係を致命的に損なってしまうような嘘もある。それでも僕は嘘をつき続けてきた。きっとそうする以外にうまく他人との距離を測れなかったのだと思う。だから僕がそんなことを聞かれるのは、しごくまっとうなことであるようだ。
 「そうだね……たぶん誰かや何かを守りたいって思ったときの嘘が多いんだと思う。そこにはもちろん自分や見栄も含まれるから、僕らはそれを慎重に扱う必要がある」
 こんな言葉が今更になって意味をなしてくれるとも思わない。でも僕にはそうするほかにないのだ。
 「そんな嘘っていうのは、多くの場合において臆病な心から生まれるんじゃないだろうか。嘘で守るものを傷つけたくないわけだから。それは優しいとも言えるし、見方によっては傲慢であるのかもしれない。けれど、どこかに後ろめたさは残ると思うよ」
 「後ろめたさっていうのは、つまり自責による免罪符みたいなものかしら」
 「そうであるとも言える。僕らは許し、許されて初めて生きていけるんだしね」
これも、嘘だ。少なくとも僕は彼女に対して、許してほしいなどと思ってはいない。
むしろもっと苛烈に責めてほしいと、彼女の気が済むまで怒ってほしいと思っている。な
にもそれは僕の被虐性からくるものではなくて、彼女にはそうすることが必要だと思うからだ。桜が一度散るから、生命力をたたえた葉をつけて、また次の年に咲けるように、彼女はいったん自分の花を落とす必要がある。それは場合によってとても美しく見えるかもしれないが、少し眼を凝らせばそれが彼女の内面を腐らせていることは明らかだからだ。地面に落ちた花弁に目をやると、踏みつけられたことで、ところどころが変色しているのが見える。彼女を覆い守る外面も、こんな風に黒ずんでしまうのかと思うと惜しい気もするけれど、そこに僕の感情が入る余地などないのだろう。

 「つまりは人は何かが傷つくことを恐れて嘘をつくのね。私に言わせればそんなのは自分勝手でしかないわ。どうしてその傷を分けあおうとしないの」
 「僕らのほとんどはそこまで強くないんだ。みんな強いふりをしているだけさ。だから傷だけじゃなくて、色んなものを分け与えるのを怖がってしまう」
 そうだ。僕もそんな人間のひとりだ。思い出を分かち合うことができなくて、守るふりをして奪うことしかできない。そんなくだらない人間のひとりだ。けれど、根元に死体が埋まっているから咲ける桜のように、僕も心の深くに思い出を眠らせて、ようやく生きることができているんだろう。
 「ふうん。そういうのって、わからないな」
 「君にはわからなくていい種類のことなんだ」
 こうも夜が鎮まると、桜の呼吸さえ聞こえてきそうな気分になる。ひとつ息をつくたびに花弁をひとつ散らせ、ひとつ息を吸うたびによそから色を奪ってきてしまうのだ。そうでもなければ、あれほど綺麗に咲き誇ることなんてできやしない。

 「ねえ、別れてくれない?」
 その問いが発せられるのが、充分に予見できたことだった。だから自分が少なからず衝撃を受けているのが意外だった。でも、僕に残された道は多くない。
 「最後にそう決めた理由だけを教えてくれないかな」
 「あなたは優しすぎるの。私がわがままを言っても、ひどい言葉をかけても、いっつも笑ってるんだもの。そういうのって、とても疲れるの。ああ、自分はこの人の感情を揺らすことだってできないんだって」
 「僕だって君に感情を揺さぶられることはあったよ。ただ君が見ていなかっただけさ」
 「それだけじゃないの。あなたいると自分がだめになっていくように思える。いつまでも満開の桜の下には、どんな鳥も寄りつかないわ」
 その比喩の指すところと、彼女の真意を図ろうとしたが、僕にはできなかった。どうしてかはわからないけれど、そんなことに意味なんてないと思ったからかもしれない。いずれにせよ、僕らはもう終わりだ。
 「僕にも異存はない。いいだろう。僕らは別れるべきところまで来た。ただ二つだけお願いがある。これでもう何の関わりもない他人どうしだ。明日からは話すことも会うこともない。それが一つ目。そして先に帰ってくれないか。これが二つ目。」
 「いいわよ。でも勘違いしないでね。私はあなたのことを嫌いになったわけじゃないの。ただ互いにとって良い選択肢を取ろうとしただけよ」
 「僕だってそうだ。だからそのことについては心配しないで」
 彼女はまるでもうすぐ咲くのを知っているかのように桜を見上げ、視線を落としてから立ちあがった。珍しく綺麗に伸びた背筋が、もう振り返ることはないのだと言っている。
 「ありがとう。さよなら」

 僕がそこに付け加えるなら、「ごめん」だ。彼女が去って行った公園は、本当に静かで、このままここにいたら僕まで桜の一部になってしまうんじゃないかという気さえする。それもいいのかもしれない。誰もが僕のことを覚えていなくても、この桜のことを覚えている人はいるだろう。嘘みたいな優しさで、あるいは優しい嘘で、自分と彼女のあいだの溝を埋めていた不器用な僕には、そんな最期だって似合いだと思う。そんな僕の姿は、桜に似ていたかもしれない。そう思うのは僕のわがままで、けれど誰に認められなくても、僕が認めてやる必要があるんだと感じた。こう桜だって、覚えている人がひとりもいなくなってしまえば、きっと寂しいだろう。やっと腰をあげた僕の右肩に花弁がひとつ落ちて、やわらかい風の音が聞こえた。


散文(批評随筆小説等) 薄く、淡く、確かに。 Copyright 灯兎 2010-04-23 00:34:25
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