感情による共感、によらない一体感についての個人的な考察
テシノ

まずは思い出話から始めさせていただく。

かつて私の父は、射撃の腕前がなかなかのものだったらしい。まぁ殺し屋だったんですがね、結婚を機に廃業したのも遠い昔のお話です。
で、子供の頃、そんな父とアーチェリーをやった事がある。
的を狙うという行為自体が初めてだった私は、最初こそ自分がひょろんと射た矢が地面に突き刺さるだけでも大興奮だった。
しかしそんな私の隣で、父は何度か試すように矢を放った後、嫌味なくらいにズバズバと的の真ん中に矢を命中させていった。

こいつ…アーチェリー初めてだって言ってたのに…

これは子供心にも面白くない。しかも彼は元来、熱中しだすと自分の立場を忘れる類いの父親だった。すぐ脇で唸りながら弓を引いている子供はたちまち置いてけぼりである。
的に刺さった矢を抜きに行くその背中に一発かましてやろうか?などと小さな頭が回転し始めた頃、ようやく殺気に気付いたのだろう。父は私にアドバイスをくれた。

的を狙うだけでは駄目だ。自分が矢になって的まで飛んでいけ。

それは、幼い私が理解するには難しすぎるアドバイスだった。結局その日、私は地面にいくつもの穴を空ける作業に終始した。
小難しい言葉で子供を煙に巻いた感のある彼の背中に穴が空かなかったのは忍耐によるものだったが、しかしそのアドバイスは妙に私の心に残った。そんな事ができるわけない、でもできたら面白いだろうな、と。

それから十数年後の事となるのだが、私はとある本の中に、あの時の父の言葉を彷彿とさせる文章を見つけた。
生憎と本のタイトルを失念してしまったのだが、それは「行為するものと行為されるものの境界が消える瞬間」という内容のものだった。
例えば、氷。
氷は冷たい。しかし氷が単体で存在する限りにおいて、それは決して冷たくはない。それに触れ、「冷たい」と感じる者がいて初めて氷は冷たくなりうる。
「冷たい」のは氷である。しかし「冷たさ」は触れた者の肌に存在する。この瞬間、「氷に触れた者」と「氷」とは、「行為する者」と「行為される物」の境界線を飛び越えた同じ事象、「冷たい」になる。
つまりその時、「者」と「物」とは混ざり合い、不可分の同一体になるのだ、というのである。

私はあの時の父の言葉を、例えばサッカー選手がゴールを決める瞬間などといった、何かを極めた者にしかわからない特別な感覚なのだろうと思っていた。
しかしこの本によれば、父の言わんとした事とは微妙なニュアンスの差こそあれ、それは日常レベルで誰しもが経験している感覚だという事になる。
前置きが随分と長くなってしまったが、そんな諸々からふと思った事がある。
それは、対象物と私達との境界が消滅する瞬間が確かにあるとすれば、私達は様々な芸術作品に対して、感情による共感以外の方法で一体感を得る事ができるのではないか、という事だ。

私は映画が好きで、ジャンルを問わずわりとよく観る方だと思う。馬鹿馬鹿しい!と思いながらコメディーに抱腹絶倒し、悲劇のヒロインにいつかの自分を重ねて涙する。
しかし、何故自分がそれを好むのかをどうにも説明できないジャンルの作品がある。それはいわゆる映像派と呼ばれる監督、一人あげるならばタルコフスキーの作品だ。
彼の作品の特徴は、少ない台詞と難解なストーリーで構築されているという点だろう。故にそれらの作品には、笑いや悲しみといった感情移入の余地が少なく、上記の「感情による共感」は体験しづらい。
映画の宣伝文句に「笑える」「泣ける」といった、感情を示唆する言葉が多用される事からも、一般に好まれる作品とは「感情による共感」が重要なポイントとなるのだろう。
映像派作品に心惹かれる人は、そこから様々な情報を読み取って独自の解釈を立ち上げる、といった楽しみ方をしている場合もある。
しかし私は、どうもその映像に見入る事だけで満足を得て、感想すら明確には抱いていないようなのだ。

これは何も私が特殊であるわけではなく、例えば好きな絵をいつまでも飽きずに眺めるというような感覚に通じるように思う。しかし、その行為で私の何が満足するのだろうか。
一般に、笑いや泣きには精神の浄化作用があるのだという。人はそれを求めて「感情による共感」をより深めてくれる作品に目を向けるのだろう。だが「感情による共感」を封じられた作品を好む者達は、それらに何を求めているのか?
ネット上などで「難解作品が好きだなんて言う奴は、ただのカッコつけだ」という誰かの発言を目にするたびに
「違うんだよ…つまりこう…違うんだよ…!」と、言葉で説明できないもどかしさに身をよじったりよじらなかったりしていたのだが、最近ようやくその正体がぼんやりと見えてきたように思う。
それが「行為するものと行為されるものの境界が消える瞬間」だ。
私はタルコフスキーの作品を観て、感情を一切必要としない、対象物と同一化する事で得られる一体感を楽しんでいるのではないだろうか。ともあれ、そこに私がえもいわれぬ快感を抱いている事を白状しておこう。

「感情による共感」体験は、自分の経験ではない出来事を自分の過去の出来事と上手く擦り合わせ、自分のものとする作業だ。
恐らく、人はそのようにして自分の世界を広めていくのだろう。それは広大な地に柵を立て、自分の敷地を広げていくのに似ているように思う。
しかし、人はその柵を飛び越えて外へ出て行く事はできない。私達は飽くまで「自分」という柵の内側からしか柵を立てられないのだ。
言ってしまえば「自分」とは記憶であり、記憶とは過去の経験である。そして経験とは、その時に生じた感情によって分類されている場合が多い。
簡単に言えば、いい思い出と悪い思い出だ。私達はそんなものに縛られながら日々の生活を送っている。普段の私達は「自分」をどこかに置き忘れて出掛ける事など不可能なのだ。
だからこそ、「行為するものと行為されるものの境界が消える瞬間」の体験は、自分をその柵から解放し、浮遊するような快感があるのではないだろうか。
感情体験による一体感がカタルシスに繋がるとすれば、非感情体験による一体感はエクスタシーに近いのではないだろうか。

そしてこれは映画だけに限らない。この現代詩フォーラムにおいても、タルコフスキー作品から受ける印象と同質のものを与えてくれる作品と出会う事がある。
私は元々、現代詩について多くを語れる知識を持っていないのだが、殊更にそれらの作品に対してはコメントする事が難しく、ただただポイントを入れるのみとなる。
これはタルコフスキー作品の感想を語れないのと同様、それらの作品から得た一体感を私の言葉に倒置する事によって、作品自体のもつ
「映像である事」
「詩である事」
の純粋性を損ない、作品の本質から乖離する事にしか繋がらないような気がするからだ。
忘我によってもたらされるエクスタシーの前には、私ごときの言葉など徒物でしかないのかも知れない。

う〜ん、やたらと長いだけで全然上手く纏められていないが、個人的にはだいぶすっきりしてしまった。
「おいそこの馬鹿!」と呼ばれても、今なら喜んで振り向かせていただく所存。「変態!」でも可である。


散文(批評随筆小説等) 感情による共感、によらない一体感についての個人的な考察 Copyright テシノ 2010-03-16 19:40:36
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