生きたいんだ
七尾きよし

「それでも傷をナメあうのではなく 共に誇らしくここで笑い合いたい」 (Dragon Ash)

友人が遺した言葉に再び想う。

つらい時は、時には、傷をナメあおう。
また時には一緒に笑い合おう。
また時には、何も共感も共有もできないままで友だちでいよう。
ぼくにできることはとても限られていて
でかいことを言うには臆病すぎて。。

ダメだって言う声に対してダメじゃないと言うんであって。
ダメじゃないってことと胸を張って自分の正当性やすばらしさを誇ることは同じことじゃない。
ダメだって声と、それに反発して俺の方が正しいんだって声と、その両方の根底に流れる暴力性にであっていく。他者の存在によって、道を求める心の持つ排他性が明らかになる、そこに門が開いている。
どちらが正しいんだでは、私たちは生きていけない。
未来にではなく、ここに今在る身を生きれないままに生きる。
求める結果がでないといけないのではなくて
願いは願いとして満ち足りている
ぼくはそういうまなざしのもとで生きて死んでいくことを選ぶ。

求めてやまないものが手に入らなければ自分が生きた証を得れないというのであれば、ぼくたちはもう現在を生きていけない。
求めるものが手に入るかどうかではなくて、狂おしいほどに求めてやまない激情が結果としてあるのであって、この「助けてくれ!」という叫び声が人間が人間たる証なんだ。
人間と人間の間に広がる断絶は何を投げ込もうとも埋まりようがなく、底ではなく側壁にぶつかった音を聞いてぬか喜びするだけ。
絶望とは探すべきものではなくて、もうそこにあるんだ。
人間が人間となった瞬間から、人間を貫くものとして。
絶望を見ようとせぬぼくらはあきらめることなく道を求めることで迷い続け流転する。
どんな道を求めるかは縁次第で、聞くべきなのは、「助けてくれ!」って叫び声なんだ。人間の人間たる証なんだ。業縁によっていかようにも振り回されて生死する人間。そのすがたになむあみだぶつの声を聞け。どう歩むかじゃないんだ。求めてやまないものが手に入るかどうかじゃないんだ。本当の願いは願いが願いとして成就していくような願いなんだ。その願いによってぼくらの「助けてくれ!」って叫び声が見出されるんだ。人間に、迷いに帰れって。
ただ南無阿彌陀仏なんだ。
本当のことはわからないけど、
ぼくはそんな風に思うんだ。
だからただ南無阿彌陀仏って称えて生きたいんだ。


自由詩 生きたいんだ Copyright 七尾きよし 2010-03-07 15:52:18
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