荒地にて2
徐 悠史郎

2


 さて、真摯に強烈に問い続けるという姿勢を堅持するというのなら、前回私自身が書いた次のような部分は、それこそ捉え返されなければならないだろう。


   もちろん私は、北川のいう「修辞的共同性」一般が、例えば詩人会議の論客たちが
   拘束されている「綱領や規約」と同じようなものだなどとは、口が裂けても言わない。
   荒地派がその成り立ちから不可避的に獲得してしまったあれら「修辞的共同性」と、
   なにか党派の<中央>あたりから回覧されてくるような性質の「運動方針」とでは、
   その出自は、全く、根本的に違うものである。見た目ちょっと似てるような感じはする
   だろうが、この区別については、いま、強調しておきたい。なによりも「荒地」同人た
   ちは、<時代のなかで、自分の言葉で書くこと>のために、苦闘してきたのである。


 実際に私というひとりの人間が一個の作品に接するときに感受することができるのは、そこに現れている一個の作品がもたらすもの以上にはなく、そこに現れているものがすべてである。荒地派の詩人たちが状況の中でどれほど苦しもうと、悩もうと、喪おうと、それは一個の作品に接している私には全く関係がない。一個の作品に向き合う、そのフェイスオフの瞬間において、その作品の「出自」を問うなどということほど無粋な読み方もないだろう。実際問題、そのような読み方は非常に難しい(というよりもやったことがないのだから難しいともカンタンとも言い切れないのだが)、高度な感取力を必要とするのではないか。ひとつの作品を巡ってあれやこれやと考えていたとしても、「じゃ、もう一度読み返してみよう」と思って作品に接し直すとき、あたう限りまっさらな心的状況で作品を読み返そうとする。(…注1)
 この限りにおいては、例えば私がそのように<まっさら>に荒地派の作品に接しようとする場合、その作品の作者である「荒地」同人の「苦闘」や「深い格闘」などといったものは捨象されていて、視野に入ってこないのだということができる。そしてこの位相において詩を読み取ろうとする限り、荒地派の諸作品に見られた修辞上の共通性は、ときに党の「綱領」や「運動方針」と同じような断面を作品の中に曝すのだということを、見逃さない方がいい。いや、この位相においては、つまりほんとうに私が詩に接しているときには、その断面すら意識されない。詩というのは、それは人間がこさえたものには違いないのに、その中で当の人間がなにがしかの<判断>をするということができない。既に私は「荒地」に<派>という接尾辞を付けてさんざん書いているが、本来ひとりひとりが毎日をなまなましく生きている中での詩の営みの集合である「荒地」に対して、なんらかの白黒の判断を下し、<派>というくくりをすること自体がおかしい。ほんとうに詩に接し、そしてなんとか無事にその中をくぐり抜けおおせた後にかろうじて白黒言いうるとすれば、それはその詩が<好き>か<嫌い>かということぐらいのものだろう。「荒地派」とある種の<政治的党派>とが「同じようなものだなどとは、口が裂けても言わない」どころか、そんなことは初めから言いようがないのである。

 唐突だが笠井嗣夫を引こう。


   詩にたいする私の態度は、たったひとつしかない。すなわち、愛することと、生きること。

                 (『現代詩手帖』2003年5月号「共犯幻想あるいは逆さの鱗」より)


 この態度の取り方は、上に書いた「ほんとうに詩に接し」ている状態と一致するものだ。ここで言われている「愛」の性質(同時に私が言っている「ほんとう」の性質)は、このエセーの題名の中の語彙「共犯」が示唆するとおり、略奪性のそれであり、非ルネッサンス的でありまた、ボードレール的な悪を双子の弟に持つような性質の愛である。この笠井氏のエセーは堅実な文体でかつ面白く、分り易いので、ここでいう「愛」の詳細は原典を読むことをお奨めする。だがここにもう少し引用しておこう、


   詩を書いている自分への愛だけでなく、自身をこえた存在としての詩そのものへの
   愛がもっとほしい。他の詩人たちの作品をまず過剰に消尽し、惑溺し、詩を生きて
   ほしい。ということで、愛と生なのである。ナイーブすぎると笑われても仕方がないの
   だが、結局のところ、詩を愛し詩を生きること以外になすべきことはない。(同)


 このエセーが掲載された『詩手帖』のこの号は「読者」がテーマなのだが、ここでの笠井氏は、言ってみれば、“読者と言うより前にまず自分自身が詩を読む者となり、詩を味わい尽くせ”という風に、作品の送達先である<あなた>よりも前に、読者としての自分自身を徹底させる方が先決だと述べている。つまり、「読者」とは徹頭徹尾<私>以外にありえないということである。これはもちろん、詩なんか書かずに読むほうに専念しろ、と言っているわけではなく、作品の受け渡しという相互的な関係形成の過程で生起してくる“詩”という事態においては、授・受それぞれの主体はそれぞれが独我としての<私>という性格でしか現れ得ないということを言っている。「愛と生」、つまり、詩とはお互いが分り合ったり分かち合ったりする場所ではない。お互いが犯し、越境し、破綻し、再生し、変容し合うための、動的な状況である。
 ともあれ、かかる状況下、言い換えれば「愛」または「ほんとう」の位相において、「しかしこのとき、読者は批評家とイコールでありうるか」という捉え返しが笠井氏によってなされる。


   だがそれとは別の問題がひとつある。愛しつつ、共犯しつつ、犯し合うのが作品と
   読者との望ましい関係であるとして、しかしこのとき、読者は批評家とイコールであ
   りうるか。愛と共犯のみでは批評は成立しないのではないか。批評のことばとして
   表出される場合、いかに熱っぽい愛を動機としていようと、批評は作品に対して、
   それぞれに真摯ではある詩人のモチーフをあっさりと裏切る読みを提示することに
   より、侵犯や抑圧をもたらさずにはいられない。侵犯や抑圧がまったくなければ、
   批評とは名ばかりで、たんなる称賛や鑑賞にすぎないものになってしまうからだ。(同)


 「たんなる称賛や鑑賞にすぎないもの」と遠まわしに言われているのは、私の読解に間違いがなければ、「詩人がほとんどの批評家を兼ねる」日本現代詩における批評の一般的状況――あまり好ましくない――を指している。自分もまた詩を書くということから来る手加減の入った手ぬるい鑑賞や称賛などは、詩という愛の蠢きにとっては毒にも薬にもならないし、逆に「それは愛のない、きわめて無機的な論理の展開か、さもなくば見かけだけ批評を装った芸談にすぎないだろう」。(…注2)
 「みずからは詩を書かない批評家たち」の「冷徹な手により袋が外部から切り裂かれる」ことがない限り、詩はその作者どうしが形成する小さなコミュニティ内部でのやり取りに終始奉仕することになり、今以上の広がりを持つことが困難になる。こうして<現代詩>における「自立した批評家」の不在が嘆かれるのだが、このように見ると、笠井氏が訴えようとしている愛としての詩の関わりの世界は、非常にタイトで、禁欲的でさえあるということが見えて来る。
 (ここで笠井氏が言及している諸問題は飽くまで<現代詩>の読者、より狭く言えばそれは『詩手帖』購買層を念頭において書かれているということについては留意しておかねばならない。詩にまつわるものに関係する一種の<マーケット>は多様だが、そのひとつとしてインターネットが挙げられる。そこにはまったく周知のように、従来とは多少異なった属性をもつ大めの<数>の人が、<私>が書いた詩の<読者>となる可能性予備軍としてやや厚めの層を形成している。ただ、事情が変わらないのは、詩が単純に<目を通される>ということとそれが<共犯的に愛し/愛される>関係を獲得するということとの間にある厖大な距離の存在だろう。いささか批評的に述べれば、笠井氏の「愛」や私の「ほんとう」の文脈において、(語られることなく)示されている詩の姿は、本来的には層としての読者獲得戦略、つまり<マーケティング>の対象としては相容れないものなのではないか。ただし、本来そうでなくとも実際上はそうなってなんら不都合がないというところが、詩の融通のきく点だ。そしてこの融通性は両刃だろう)
 「〜である」あるいは「〜とは何か」。すなわち「〜を〜たらしめている当のものは何か」といったソクラテス的な知の方法の誘惑から逃れることは難しい。だがそれは哲学の方法なのであって批評の方法ではない。まして、詩が普遍などと、いったいどんな関わりがあるというのだろうか。もしあるというのなら、徹底して主情的な立場に立つことは不可能だ、そこにはどうしても客観が入ると私は言いたい。
 私はここで、批評とはどうあるべきかについて、つまりその意義について積極的に述べる積りはない。批評など、読んで面白ければそれでいいと思っている。批評が冷徹な眼で詩を見据え、作品の「愛」に頓着せずにそれを解体することで新しい視野を開いたとしても、その開示された視野がつまらなければ、私にしてみればそれはよくない文章ということになる。また、詩の愛にまみれた賞賛めいた文章についても同様だ。「これいいよ、読んでごらん」で済むところを、なにもいちいち「私はこの部分で感動しました」あるいは「この行に触れたとき私はこんなことを思い浮かべました」といったような報告をされてしまうと、逆に興ざめしてしまうことのほうが多い。感想であれ称賛であれ鑑賞であれ、よい文章は作品と執筆者とのバランスの取り方がうまい。作品の中身についてはあまり触れずに示唆するにとどめ、むしろ詩人とその詩の成り立ちや背景などをコンパクトに伝え、あとは相手にまかせる。これ以上踏み込むと擬似的批評の領域に入り、お互いがなにかすっきりしない中途半端な結果を招く可能性が高くなる。もちろんこういった中途半端な領域をうまく切り盛りしながら面白い文章を書くということも可能ではあるだろう。雑誌社の出版物などで、その本を買わせるように仕向けるタイプの<評>などは、そういった方法や文体を意図的に択んでいると思われる。(オンライン環境で取り交わされる<レス>については、ここでは言及を省く。)

 話が少し流れたが、言いたいのは、一篇の詩に「愛」的に、「ほんとう」に関わったときの純粋な感動や感慨を、あらためて別の文字にうつしかえて見せるという行為には、ある種下品な衝動が絡んでいるように思えてならないということだ。このお品のない衝動がそれでもなお断ち切り難いとき、それを放出するために、おそらく文芸人士は<批評>という方法を発明したのだろう。それは感動を押さえるがゆえに冷徹にならざるを得ず、しかも一旦そのやり方で始めてしまった以上後戻りもできず、その無感動路線を突っ走るほかなくなった、非情の文芸であろう。しかしながらこのように作品に正対する立場に立つことによってのみ明らかになるものが確かにあるということは、批評にとっての名誉だ。(…注3)
 そうして書かれた批評からは、作品単体から感取できるものとは別種の感興があり、それが読者にとっての批評の第一の価値ということになっている。そしてそれが個人的な価値にとどまらずに、一定の社会的融通性と一般性をも帯びるという所に、批評の意義というものが認められる。批評的観点からは作品対読者という単一の(そうはいいながらそれは時としてゆらぎを伴う)コンテクストから“詩”を一度引き剥がし、そこに別種の、複数の視点の照射を試みることによって、作品の新しい価値をそこに見出すということがある。そのうえで再び読者に戻された作品において、読む者はまた違うゆたかさを孕んだ共犯関係を築くこともできる。
 例えば北川透『荒地論』が示し得た戦後(詩)の<劇>は、戦中において政治的抑圧を受けたモダニズムの「全面的崩壊」と敗戦後のその厚顔無恥な蘇生という風景の中での「荒地」同人たちの苦闘の物語であったと読み取ることができる。観念へ昇華していきつつもなお身体に傷痕を残す語彙を駆使し、同人において最も「荒地」的であったと称される田村隆一と、戦前〜戦中にかけてのさまざまな思索を経て「荒地」に到達し、荒地派の観念的な戦後意識の領野から「素手」で戦後という<生活>の現実への回帰を企図した黒田三郎の二者を荒地派の詩表現の両端と捉え、さらに戦後の絶望感からの救済に宗教的浄化のイメージを重ねた三好豊一郎、<死>と<やさしきもの>との狭間に詩の声を聴く北村太郎、そして戦時中、政策的プロパガンダに関与しながらも「荒地」に自らの表現の場を見出した木原孝一や中桐雅夫らの詩的営為が、そこに詩という表現の形を取って現れた。そしてそれらの多彩さを包括し、統括する役回りを担いきったのが鮎川信夫であった。荒地派のマニフェストとして読まれている『Xへの献辞』は無署名だが、おそらく鮎川の手になるものであろうと北川氏は推察している。
 いっぽう、荒地派のイデオローグとしての彼ではなく、一個人としての鮎川の詩のなかに、北川氏は「自己放棄が自己救済でもある回路を断ち切っている」という異常な、「独特」な形での「放棄の構造」を見出している。
 自己放棄が自己救済に繋がらない――これはどういうことだろうか。鮎川信夫に関してはまた稿をあらためて書いてみたいという思いもあるが、ここで北川氏の論考を参考にして、少し私なりに書いておきたい。まだなんとも言えないが、このテーゼには重要な問題が含まれているように感じられる。
 戦中の詩<精神>の全面的崩壊をまのあたりにした結果生まれた「荒地派のラジカルな否定力」(=北川)は、必ずしも詩そのものの新しい生きた領野を切り開かなかっただろう。それは例えば田村隆一の繰り出した錐揉みのような観念的語法によっても、黒田三郎が試みた「民衆」また「俗な市民」的な生活感覚への接近によってもなしえず、その後の日本社会の経済復興やそれに伴う日常生活の相対的安定(だが、誰の?)とパラレルな関係を持つかのように現れた「感受性の王国」(大岡信)といったような、言語のリアリティを社会的コンテクストにおいてではなく個人の身体感覚に求める動きになしくずし的に取って代わられたからかもしれない。あるいはそれは仮構された「擬似戦後意識」を活動の始発点に据えた荒地派そのものが当初から内包していた限界であったかもしれない。どちらにしても私には、ヴァーチャルな戦後を全身で生き抜き、それをある意味では最も人間的に体現しようとした鮎川信夫の中に、なぜだか、疲れ切った現在という<日本>を見るような気がするのである。
 鮎川氏が浦安のディズニーランドを手放しで賞賛したということ、また彼が死んだのがスーパーマリオの裏技をやっている真っ最中だったという事実は、私には象徴的に感じられる。ぜんたい、鮎川信夫は作品のなかで何か目新しい発見をひけらかすというような印象があまりない。思想をそこで述べるという感じもあまりなく、思考の断面をさらすという感じもない。むしろそういった思想や思考をし終えた人間からする、人間を冷ややかに見据え切ってしまった目線の呈示以外に、なにもないのではないかという感じがある。
 さきほど鮎川信夫について、「荒地派のイデオローグとしての彼ではなく、一個人としての鮎川」という表現を用いた。荒地派にはこのように、<派>としての理論と個人との乖離があり、またそれは詩という独特の土壌のもとで恐らく彼らの内部で奨励されていたのではないか。どんなに縛ろうとも縛れないものが人間の中にある。いっぽうでどんなにもがいても逃れ得ない社会の中に人間がある。この与えられた条件の中でなによりも“詩”を生存の価値とするとき、荒地派の<解体>という事件はむしろ、荒地派そのものの存在証明であったろう。解体することによってしか、彼らは荒地を手にすることができなかったということもできるのだ。
 どんなに縛っても縛りきれない人間の本質とはなにか。詩によって手繰り寄せられたその“本質”なるもの、そのあらゆる望みがもはや過去としてしか捉えられないという状況を呈している鮎川信夫の詩の中にこそ、私は荒地を見る思いがする。もはや明日を見据えてしまった、灰燼のなかの「泥の眼」を。。。









(注1)あたう限りまっさら。。。ほんらいの、完全な「まっさら」という状態で詩を読むということは不可能だろう。はんらいの意味でのまっさらな状態の中では、詩自体が成立しない。


(注2)こうした見解に関連するものとして、柏木麻里「書法論―文字列・画面・重力について」(『別冊GANYMEDE』「詩と詩論」収録 2002年8月 )がある。この論考は柏木氏のウェブサイト「薄明の果実」でも読むことができる。
http://homepage2.nifty.com/dawnfruit/shohoron.html


(注3)これは強調するが作品単体が読み手に与えるものとは別種のなにものかである。しかしながら個々の作品には、それを書き残した(、まさに書き残した)詩人たちの生きた痕が刻印されている。『荒地論』はその刻印に光を照射し、それをあらためて浮かび上がらせたに過ぎない。そしてそれこそがこの書物の名誉なのだと言うべきだ。










散文(批評随筆小説等) 荒地にて2 Copyright 徐 悠史郎 2003-10-04 23:39:21
notebook Home 戻る  過去 未来