【批評祭参加作品】停滞が継続していくこと。
いとう



さて。
40歳になったら隠居すると前から言っていて、
そのとおりに隠居しながらもう三年くらい経った。
なんだかネット上で詩を書き始めてから
十数年も経ってしまったこんなロートルがしゃしゃり出ても
百害あって一理なしなのだろう。
老害とはよく言ったものだ。

で。
ネット上の詩を見始めた頃と、今と、
状況は実は、なんの変化もない。
同じ話題や同じ議論が、
数年ごとに場所を変えて浮かんでは、
同じように収束していく。
個人的には「ネット詩」なんて言葉は
そろそろ無くなってもいい頃だと思っているのだけれど、
そんな気配すら起こらない。
実際のところ、そんな状況に「飽きた」というのも、
隠居理由のひとつだったりする。


インターネットは蓄積が困難な媒体であるという思いが強く、
たとえばこの批評祭だって、
たった十数年のスパンで見ても、
「なんだか昔どっかで同じようなことやってたよなぁ」
という思いに駆られてしまう。そんなものだったりする。
何度もリセットされる仮想現実を延々眺めているような気分だ。

(もちろんそれがこの祭の批判につながることはない。
 行動するものだけがいつも結果を得るのだ)


よくよく考えれば、
インターネットの発展というのは、
それは記録の蓄積からではなく、
システムの新築からしか生まれていない。
初めはホームページというシステムだった。
それがブログになり、SNSになり、
最近はTwitterとかなんとか、
新しいシステムが生まれ、それが時流になり、
なんだか発展している(ように見える)、けど、
実際のところ、参加者が行っていることは、
ほとんど変わっていない。
結局“停滞”というのは媒体特性によるものであって、
詩の状況とかそんなもんは、実はまったく関係ないのだろう。
裏を返せば、「ネット詩」なんて呼ばれるもの“だけ”を見続けても、
「詩」については何もわからないままなのだ。
(悪い意味ではなく)「ネット詩」なんてそんなものだと思う。

ただ、そこにあるパワーは、大切にしたい。
そういう状況を見て、「停滞している」「何も始まっていない」
などと述べるのは、なんだかそれこそ、
停滞の渦の中にいるんじゃないかな、と、最近思うようになった。
なんだろね、嘆息ではなく感嘆しながら、
「よくこんだけのリセットが繰り返されるよな。」とか、
「よくこんだけ同じような議論がいつも起こるよな」とか、
なんか、そんな、停滞し続けるパワーみたいなものを感じるのだ。
継続にはエネルギーが必要で、
上昇しない螺旋階段のような場所で、それでも同じ場所を回り続ける、
そんな継続が未だに続いている、
なんだかそれって、
じつは凄いことなんじゃないの?って。


「どこにあっても詩は詩でしかない」というのが持論のひとつで、
それは結局「どこにあるか」で判断されるべきものではないということで、
「ネット詩」なんて言葉が生まれたのは、
「どこにあるか」で判断されてきた経緯の結果であって、逆に、
「ネット詩」なんて言葉が残っているのは、
それが続いているのか、あるいは、
(ネットで詩を書いている人ではなく)ネット上の詩を気にしている人が、
それがもう終わっていることに気づいていないのか、
あるいはもっと別の、何か別の要因なのか、
なんだかそれはわからない。
さっき書いたように個人的には「ネット詩」なんて言葉は
そろそろ無くなってもいい頃だと思っているのだけれど、
そんな気配すら起こらなくて、
でもなんか「ネット詩」と叫び続ける人、叫び始める人は、たくさん生まれて、
それを批判する人もいつも同じように生まれて、
それこそそれは「インターネットだから」と言ってしまってもいいんじゃないかと思う。
「インターネットだからこそ」と、言い換えてみようか。

まー結局、実際のところ、
そんなパワーを持ち続ける年齢じゃなくなったというのも、
隠居理由のひとつだったりする。
同じ場所をぐるぐる回れるエネルギーなんて、
ロートルは持ち合わせていないのだ。
老人は、縁側で茶を啜ってればいいのだ。
なんだか毎日ぐるぐる昇ってくる太陽の
パワー溢れる陽光に浸りながら。



散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】停滞が継続していくこと。 Copyright いとう 2010-01-13 00:51:55
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