『批評際参加作品』私が読みたい詩-実存と世界性
ダーザイン

 相田さんの情熱には是非とも応えたいと思っていたのだが、ダーザインは入退院を繰り返すなど体調悪く、ちゃんとした文章を書くのは無理でした。今も3日間何も食べられず一日点滴を打ってきたところです。ダーザインの散文というのはスペキュラティブフィクションであり、魔術的レアリスムであり、ワイヤード至上主義の演説であり、要するに得体が知れないことを書かないと気が済まないのだが、今日は推敲も何もせず投稿掲示板に直打ちで至って当たり前のことしか書けないと思います。ご容赦ください。私が読みたい詩がどんなものかを少しずつ書いていけたらと思います。

 大変当たり前のことですが、文章のデッサン力・まっとうな作文能力、要するに基底現実(実存の存在様態「世界内存在」)に下支えされていない文章を私は評価しません。どんな飛躍も、飛び立つためのしっかりした足場、デッサン力に下支えされていなければなりません。デッサン力が無い絵描きが抽象画だと言ってぬたくりものを書いて誉めたたえられている様子を見るのは私には実に滑稽なことに思われます。どいつもこいつもイデオサパタ志願かよと。

 皆様方には大道を歩んでいただきたいと思う。言語派とやらのぬたくりものと老人のつまらない身辺雑記で書店に置かれることがなくなった商業活字詩誌の中から、光冨郁也さんの大変上等な文章を見つけた時、私は思わずユリイカ! と叫んだものである。光富郁也(現在光冨いくや)さんの現象学的ハードボイルド文体が異界へと越境し、現実という事柄の可能性を飛躍的に拡大するのを見て、私は速やかに、新しい文学がここから始まるなと確信した。光富郁也さんのバードシリーズ、マーメイド海岸シリーズについて、「現実と幻想の往還」という評を付けた人がいるがそれは表層的な読みだ。あそこに書かれていることはことごとく現実の諸相であると考えるべきである。現実という事柄は、集合的無意識の諸相や多元宇宙のあらゆる可能性へと開かれているのである。ここに新世紀詩文学メディア文学極道が発起する。彼は21世紀文学の荒野に預ばうるものであった。
 彼の傑作の数々は文学極道でも読めますが、是非とも詩集を買っていただきたいと思います。
 http://bungoku.jp/monthly/?name=%82%dd%82%c2%82%c6%82%dd
 http://mitsutomi.web.fc2.com/index.html
 21世紀の詩集で読むに値する最大の詩集は光富いくやさんの「バ―ドシリーズ」と佐藤yuupopicさんの「トランジッション」である。 
 http://bungoku.jp/monthly/?name=%8d%b2%93%a1yuupopic
 http://blog.livedoor.jp/yuupopic/

 私は人間が描けない子供の詩など読みたくない。人間が描かれていない詩とは言語遊戯であり、ダスマンであり、書くべき人間でない輩だとさえいえる。佐藤さんの実存描写力は圧巻である。蛍さんが彼女の詩を評して憑依と語ったことがあるが彼女がさまざまの語り手に成りきる実存の作劇法は、憑依とでも言うよりほかない大変な集中と、ただの力技ではない真摯な生がもたらすものである。みなさん、ちゃんと生きていますか? 一所懸命生きていますか?
 私はあなたたちが身命をかけて書いた作品が読みたい。

 次にまーろっくさんの「カン・チャン・リルダの夜」について触れたい。
 http://bungoku.jp/monthly/?name=%82%dc%81%5b%82%eb%82%c1%82%ad
 見よ、この男の強烈な実存を。初読、インドかどこかの異郷の話かと思ったら、これはまぎれもない日本というこの国の現実なのだ。ネオリベ施政のもとでの人間の惨状を先験的に描いた傑作である。大都市の裏町の精神病院から暗渠に流れ出る廃水のようにこの詩は死と汚辱にまみれているが神々しい。この詩のどこに自己への憐れみがあるだろう? そのようなものはない。雄々しく猛々しい。手足のない異形の子供たちの切断面から、娼婦の空疎な笑顔から、 
「なにもかも見失って誰かの夢に迷い込みたくなったら、首都のターミナルのF番ホームをたずね歩いてみるといい。
カン・チャン・リルダだ。忘れるな。俺が影を失くしてから十年が経つ。」
 このように重たい鉈で叩き付けるように終える話者の口から、きっと異形の花々が咲きほころぶ事だろう。

 触れたい詩人は山ほどいるのだが、もう時間が無いので現代日本最大の詩人・文人コントラさんについて触れて最後にしたいと思う。
 http://bungoku.jp/monthly/?name=%83R%83%93%83g%83%89
 コントラさんは、光冨さんが切り開いた新世紀文学の大道を突き進み、現象学派とでもいうべき文学の新境地を開いた文学史的な英傑である。彼の作品、言説ともに、文学極道のテーゼである。世界性、モダニズムの構築、弁証法の第一原理・異質なもののせめぎあい、中心と辺境とのせめぎあい、土俗とパンアメリカン、メディア化された現実への深い洞察、そして圧倒的な美質。完璧な筆力で現代を描き切る最大の文人である。彼が描くのは話者の主観ではなくて、話者がいる世界全体である。熱帯アメリカの過飽和なほどの光の描写を見よ、AYAKOと共にいた世界の完璧な描写を見よ。驚がく的な筆力である。

「シルビア」コントラ作

シルビアは恋人の兄のマルコスに「デブだ」とからかわれても、黙って顔をそむけるだけだった。雨上がりの日曜日。表通りのアスファルトから湿った風が這い上がり、リビングの古びたテーブルクロスの上では、錠剤の袋がかすかに音をたてている。門の向こうに車がとまり、礼服を着たシルビアの家族が午前のミサから帰ってくる。彼らは部屋に入って
着替えを済ませると、すぐにまた車に乗ってでかけてゆく。シルビアの家族は、小さな二人の弟もふくめ、みんな太っている。国境を越えて輸送される黄色やオレンジ色の炭酸水は、この国の神話のプログラムを見えないところで書き換えている。

パウンドケーキのような熱帯林の中央基線が交わるあたりには、巨大なショッピングコンプレックスが午後の陽を浴びて白く光っている。シルビアによれば、ここのフードコートで売られているピザやフライドチキンは、母がつくったものとは違う味がする。しゅわしゅわと口のなかで溶け、まるで宇宙食を食べているような感じなのだ。シャーベットのよ
うな冷気が充填されたフロアを出ると、シルビアの家族は地平線が見えるハイウェイに車を入れる。後部座席では、シルビアが朝からの物憂げな表情で窓ガラスに額をあてている。いつからか、彼女の視界には光る綿のようなものがちらつくようになり、体のだるさはいつまでたっても直らない。

シルビアの父がいつも赤信号で急ブレーキを踏む、環状道路の交差点。車の列が停止すると、安物のキャップをかぶった物売りたちが寄ってきて、小さな押し花やボトル詰めの炭酸水を売り歩く。汗ばむ褐色の腕に握られた炭酸水がきらきらと熱を放射するのを見まもるシルビア。排気ガスで黒く汚れた壁と、炎天下に立ちつくす売り子たちの姿が無声映画
のカットのように映り、アクセルを踏み込むと視界から消える。ドライバーの目線をはばむ鋼鉄の防音壁の外に広がる原生林のむこうには、板きれやダンボールで風をしのぐバラックの群がゆるやかな丘の中腹まで続いている。

あれは小さなころ、縫いぐるみを抱いて祖母の家に遊びにいったときのことだ。眠たい目をこすりながら飛行機がこの街に着陸してゆくとき、砂粒のようなの電灯の群が、この丘のうえまで這い上がっているのを見て、シルビアはベッドカバーに落ちた宝石のように、それらを手にとることができるような気がしていた。いま、そこから数百メートルも離れ
ていない、なめらかに舗装されたハイウェイを、日本製のセダンは滑ってゆく。道が緩やかにカーブしていくと、フライドチキンの広告塔が回転しているのが視界の隅にはいり、そのむこうには広く青ざめた空が緑の地平線をすりきりの地点で飲みこんでいる。


 もう時間が無いので多くの人について触れられなかったが、続きは批評祭の後でも書いていこうと思う。私はこれらの人たちから多くを学んだ。皆も彼らの作品を読んで開眼していただけたらと願う。ではまた。


散文(批評随筆小説等) 『批評際参加作品』私が読みたい詩-実存と世界性 Copyright ダーザイン 2010-01-12 21:58:11縦
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第4回批評祭参加作品