【批評祭参加作品】日々のひび割れ −石川敬大『ある晩秋の週末のすごし方が女のおねだりで決まる』評−
大村 浩一

日々のひび割れ
 −石川敬大『ある晩秋の週末のすごし方が女のおねだりで決まる』評−


 石川敬大さんは、現フォでは練達の詩人と言ってよい。
 彼の近作に、私にとって妙に気になる作品があった。そういう詩に限って一
般の評価は控え目だったりする。作者にとってはこの作品でこういう取り上げ
られ方をされるのは不本意かもしれなかったのだが、一応お声がけした上で敢
行した。二晩で書いた拙い文で恐縮だが、この詩に潜むものが多少でも読者の
方に見えてくるのなら幸いである。



ある晩秋の週末のすごし方が女のおねだりで決まる
石川敬大


 どこかの紅葉を買いにゆこう
 と、女がいった
 言葉に
 ぼくはまったくピンとこなかった

 二歳にもならない
 愛犬ミルクは車に弱い
 夕方は早く暗くなるので留守番では
 可哀想すぎる
 ぼくの
 こころの足もとが躓くのは
 その一点においてなのだが
 とても軽視できない一点でもあって
 だ、けれど
 女が
 こんな風にきりだしてくるのは滅多にないことで
 そのことだけは確かで
 家事の疲れが滞留しているのかしらん
 と、溜まった水槽の堆積を思う
 ぼくだった

 愛犬ミルクと女と究極の選択になれば
 泣く泣く
 ぼくは女をとるだろう

 あしたの予定は
 これでもう
 決まったようなものだ

    *

 あした
 空が晴れわたったなら
 ぼくらは
 ジャスコにでもゆくみたいに気軽に
 意気揚々と
 山へ
 どこかの紅葉を買いにゆく


 判りやすい詩なので、くだくだ解題する必要はない。
 しかし何気なくやっているなかにも、実は注目すべき点が幾つかある。それ
を拾えば、この詩の魅力や理由も見えてくる。

 まずタイトルの異様な長さが目に入る。しかも何か穏やかではない。
「ある晩秋の週末のすごし方が女のおねだりで決まる」
 普通なら「…すごし方」ぐらいまでに留めるところを「女のおねだり」とま
で引っ張って、「決まる」と断言で突っぱねる。かなり不機嫌で不遜な感じだ。
ここがこの詩の敷居だ。
「女」という呼び方にもこだわっている。後半に「家事の疲れが」などと出て
くるので、恐らくは「妻」であろうのに、妻でも恋人でも女房でもなく「女」
なのだ。呼び掛けの届く相手が随分と広がってしまう。
 ふと先日の芥川賞の「終の住処」を思い出した。主人公が妻や母親、果ては
自分の娘や町行く見知らぬ女まで、実は同じ一人の女では、あるいは裏で示し
合わせているのでは、と妄想を抱く描写がある。この詩もタイトルで「女」と
大雑把に括ることで、主人公に身近な筈の女性を、彼には理解できない種類の
生き物へと変身させている。
 第1連に進んでみよう。

# どこかの紅葉を買いにゆこう
# と、女がいった
# 言葉に
# ぼくはまったくピンとこなかった

 最初、「どこかの紅茶を」と誤読していた。疲れ目で時間に追われて批評な
どするものではない(笑)と思ったが、確かにピンと来ない言葉だ。「どこか
の」という言い方にはどこか投げやりで逃避の印象がある。意欲的な人間なら
「何々渓谷の紅葉がいま見ごろだから」とか具体性を帯びた提案が出てくるも
のだろうから。
 しかも紅葉を見るとは自然を愛でる行為であって、カネで買うものではない。
それを「買いに」とは、けっこう不遜なイヤミな言われ方である。
 改行位置が意図的に変えてある。「と女がいったその言葉に」と1行に出来
るものをわざと分けてあるため、「言葉に」が前行にかかるのか後の行なのか、
一瞬迷うために異物感が醸成される。詩人だから「言葉」に引っ掛かりたいと
いう意図があるのだろう。またこうすることで「女」も目立つ。ここでも呼び
方は当然「女」である。

 主人公の当惑の理由が、第2連以降で明らかになる。主人公の幼い愛犬の立
場が、妻の要求でたちまち脅かされてしまうからだ。

# 二歳にもならない
# 愛犬ミルクは車に弱い
# 夕方は早く暗くなるので留守番では
# 可哀想すぎる
# ぼくの
# こころの足もとが躓くのは
# その一点においてなのだが
# とても軽視できない一点でもあって
# だ、けれど
# 女が
# こんな風にきりだしてくるのは滅多にないことで
# そのことだけは確かで
# 家事の疲れが滞留しているのかしらん
# と、溜まった水槽の堆積を思う
# ぼくだった

 各行の長さはまちまちだか、作者固有の呼吸でリズムが形成されている。15
行目まで5行周期で、その1〜3行目が順番に長くなり、4・5行で順に短く
なる。(11行目は例外)
 そして「だ、けれど」「滅多に」「確か」「滞留」「溜まった」「堆積」と、
ポイントになる所や行の後半に「た」という音が入り調子を整えている。
 この「だ、けれど」の読点も、前出の「と、女がいった/言葉に」と同様の、
意図的な言葉の躓きである。そしてここでも「女が」の意図的な際立たせが行
われている。そのほか「一点」を重ねたり、助詞によって各行をつないでいく
ことで主人公の逡巡を上手く表現している。
 生活の疲れの滞留を「溜まった水槽の堆積」のイメージに重ね合わせる鮮や
かさは、最終連のジャスコ同様、この作者の優れた表現力の一端と見ていい。

# 愛犬ミルクと女と究極の選択になれば
# 泣く泣く
# ぼくは女をとるだろう
#
# あしたの予定は
# これでもう
# 決まったようなものだ

 第3・4連はやや蛇足気味だが、これも主人公の逡巡の表現と思われる。
「究極の選択」は親切な言い方。それで泣く泣く「女」をとり、結果的に愛犬
は切り捨てられる。逡巡はどうあれ犬にとっては同じことだ。普段は「なにも
なくさない」とか誓っていそうな主人公が、自分の利益のためにあっさり哲学
を変える。起きる事は小さいが思想の後退は大きい。ちょっと大袈裟すぎるか。
(笑)最後の「ようなものだ」の未練がましさが、苦笑いを誘う。

# あした
# 空が晴れわたったなら
# ぼくらは
# ジャスコにでもゆくみたいに気軽に
# 意気揚々と
# 山へ
# どこかの紅葉を買いにゆく

 最終連。ただ「晴れた」ではなくわざわざ「空が晴れわたった」という言い
方に注意。これは空間に意識を置いた、映像的な描写だ。晩秋の深い青空の下
を、たぶん車に乗った男女が、遠くの山を目指してまっすぐ進んでいく。
 この「ジャスコ」が、暗号の多い現代詩にあっては平文っぽい、洒落ッ気の
ない言い方で良い。別にケータイがどうとか書かなくても現代の日常性を描く
ことは出来る。郊外に乱立する巨大ショッピングセンターへの違和感は、同時
にこの詩を現代社会へと接続している。少なくもこの詩はジャスコの宣伝には
使われまい。西武ならまだしも。(笑)
「山へ/どこかの紅葉を買いにゆく」結局、地名は最後まで出てこない。最後
は女の台詞の復唱である。そして犬をどうするのかは1字も書かれない。

 この詩はたぶん。当初はウィットを利かせたライト・ヴァース的な仕上げを
狙って書かれたのではと私は思った。けれども書いていくうちに、何か笑い事
で済まされないものを作者は感じたのではないか。それが遂にはタイトルに突
出した、と考えられないか。作者にとって誤算だったかもしれないが、私にと
ってはその誤算のままに描かれたことで、却って印象に残る詩になったように
思う。ただのペーソスギャグだったら読み流していただろう。
 この詩の「女」は、単純な生物学的な意味での女性を意味しない。むしろ社
会制度としての女、家計や経済を象徴し、男性に男性性を強いる存在としての
現代の女性である。
 ポエトリーリーディングに馴染みのある方は、近藤洋一(1000番出版に詩集
アリ)の声をイメージしながらこの詩を読むといい。この詩に秘められた冷や
やかな皮肉が、浮かび上がってくるのを感じるだろう。

 最後に、自分の詩に対する考え方を少し書く。
 詩や俳句の書き方を教える時「まず日常から書け」みたいな事を言う人が居
るが、あれを真に受けられては困る。いまどきただ平凡な日常や幸福を描かれ
ても、そうでない人からの退屈や反感を買うだけだと私は思う。
 「短歌研究」の1月号で、岡井隆との対談で松浦寿輝も「(この閉塞感のあ
る時代に)明るい詩、明るい文学なんて、嘘臭いものにしかならない」と言っ
ている。前後の文脈からそう導かれてもいるのだが、文学の現場にいる人の多
くは、このことを感じていると思う。明るい小奇麗な物件は、マンションでも
詩でもまず疑ってかかるのが、現代人のリアルな感覚ではないだろうか。
 現代詩の詩人ならば、まずもって日常生活のなかに潜む矛盾や無常、人の残
酷さをこそ直視しえぐり出す能力が必要ではないか、と私は考える。
 詩人の目とは、だから自分の関わるあらゆるものから矛盾や違和感を発見で
きる目でなければならない。時には取材も必要だろう。
 そしてそうした違和感の鍵を見つけられないまま書くとか、企画の方向性に
安易に従うとか(反戦詩なんかもそうだぞ)、そういうことをしてはいけない。
皮相的な、月並みな安易なものしか出てこないのなら、そういう素材を選んで
書き始めたこと自体が間違いなのだ。

2010/1/8
大村浩一


散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】日々のひび割れ −石川敬大『ある晩秋の週末のすごし方が女のおねだりで決まる』評− Copyright 大村 浩一 2010-01-10 00:27:03
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