【批評祭参加作品】口語自由詩と散文との違いは何か
……とある蛙

 口語自由詩と散文との違いは正直よく分かりません。
それでよく詩を書いていると言えるなっと詰問されたら「ごめんなさい道楽でやっているものですから」 とでも謝るしかありません。
そんなことどっちでもいいじゃないかという人もいます。

 しかし、現代詩と称するものの多くは行分けした不完全な散文であるから 詩は誰も読まない。あるいは読んでも面白くないと言われれば、あながちこの議論を無視して詩を論じて良いかと自問せざるを得なくなると思います。自分なりに考えるところを述べさせて頂きます。

 口語自由詩も詩であることは争いがないと思いますが、実際、散文との区別は明確ではありません。まして散文詩というものと散文との区別ははっきりしません。
 未完成なモチーフを表現するのが詩だということを考えている人もいます。
 文脈の中にある内在的なリズム感あるものが詩で、そうでないものが散文とするという人もいます。しかし内在的リズムとは何なのか不明ですし、どう読んでもリズムなど感じられない詩も多数あります。
 なかには作者が詩だといったものが詩だとする人もいます。詩が近代文学の基礎ざさえであると考えれば到底容認できる議論ではありません。

 私はおよそ詩である以上何らかの韻文的な要素がなければ詩とはいえないと思います。

 詩に関して、サルトルは 当初、「詩人は言葉をものつまり対象として捉えることの出来る人、小説家は言葉を徴表として捉えることの出来る人」と区分けしておりました。この区分けでは 極論すれば詩が韻文であるかないか等問題ではなく、言葉の伝達性を捨て去って何らかのモチーフを構築したものが詩であって、詩に関する解釈とかそのような姿勢で詩を鑑賞してはならないものとして詩が存在することとなります。

 詩の中の言葉の伝達機能性を無視することは、言葉という素材それ自身の特徴や利点を捨て去ることですから、詩を書くことに関してある程度は妥当する としても極端にまでこだわることはあまり現実的ではありません。サルトルも少し異なる考え方に変化しているようです(私めんどくさがり屋なのできちんと文献調べてません〜)。

 それでは詩と散文を区分けするのはどのような考え方がよいのでしょうか。

※これから書くことは独善的な私の考えなので、必ずしも正しいかは疑問です。皆様方の考えるきっかけになればと思っています。

 言葉を読むことによって、言葉の徴表を積み上げ、それによって作者の考えを読者に理解させる あるいは物語中の事実関係の理解によりそのテーマを理解させ感動させるもの、つまり、言葉の徴表によって物語中のリアルな事実関係を理解させテーマを認識させるものが散文だと考えます。
 実用文も事実を書こうとする点、小説などと同様散文の範疇に入ります。しかし、実用文は小説と異なり言葉の意味を厳密に定義付けされたものですから、しかも完結にするため、修飾語は不要です。暗喩も直喩も使いません。極、まれに物の形状などを説明するために直喩を使う場合があります。小説はその点飽きさせないためにあらゆるレトリックを使います。したがって、詩との区別で問題となるのは詩と同様のレトリックを用いる小説などの文芸の範疇に入る文章だと思います。

 多くのネット詩などに言えるのですが、暗喩隠喩を使えば詩として成立するという誤解をまず否定しなければなりません。
 暗喩、直喩 など喩法は詩のレトリックとしては本質的なものではありません。このことは鈴木志郎康さんも入沢康夫さんもそれぞれの詩論で述べております。つまり、小説でも隠喩暗喩は効果的に使われていますし、踰法を使わない小説は無いとも考えらられます。
 特に鈴木志郎康さんは隠喩について 筆者の恣意に依存するのでその詩は読みにくい。そのような詩は読むこと自体が苦痛になるので、できれば隠喩の少ない軽やかな詩を書くべきではないかと提案しております。正しい見解だと思います。
 どこでどう勘違いしたか隠喩こそ詩の本質だと思っている人が多いのでは無いでしょうか(間違っていたらごめんなさい−そのような批評が多いので)。詩を読むには素養あるいは基礎的教養は必要ですが、個人的な事情を理解しなければ分からないような隠喩は避けるべきであると考えられます。詩に誤解は付き物ですが、読者を全く無視した詩はいただけません。どうしても使わざるを得ない時は詩の中で喩えの理解のヒントを置くべきです。 と思っています。ちょっと脱線しました。
 ※これは、当然、踰法を詩の中で使うことを前提とした使い方を言っているので誤解無きように と思います。

 私が考えるに詩の成立には2つの要素が必要だと思います。

 第1に 言葉 及び 言葉によって(媒介すると言っても良いと思いますが)構成される話者と読者と作者との関係性 を作者のモチーフを実現するための素材と考え、その中で言葉の伝達性を生かして作られた作品が詩だと考えます。
 この場合、言葉の機能の中心は伝達機能それ自体ではないので、言葉自体いろいろ複合的意味を持たせることは当然許容されます。定義付けは不要で詩として構成された作品から読者が何かを感じる……出来れば作者の考えたモチーフ(入沢康夫さんだと図柄になりますか)、ことによって詩は成立すると思います。 アレンギンズバーグの言っていた「主観的真実の表現は他の者が客観化することによって初めて詩になる」ってなこともこのことに連なることだと思います。読者を無視して詩は成立しませんし、客観的真実の表現ではないのです。その点、散文とは大きく違います。

 第2に 詩は口に出して読むことを前提として成立しなければなりません。ある人(もう誰であるか覚えていません。寺山修司か?)は「グーテンベルグが活版印刷機を発明してから、詩人はさるぐつわをかまされた。それ以来詩人は文字で詩を書くようになり、長いモノローグを書き続けている。」と喝破しました。つまり、朗読は詩の本質的要素なのです。和歌でも詩吟でもなんでも口に出して読むだけで感動できる物を目指すべきです。そのためのリズム感ではないでしょうか。なお、このことは定型詩とは直接関係在りません。
 ※楽譜を黙読して音楽を感じる人が余りいないのと同様(本当の専門家はそれも可能ですが)、楽譜は音楽という一期一会の芸術を便宜的に書きとめた物で演奏しなければ誰も感動しませんし、楽譜自体は芸術でも何でもなく、音楽それ自体を示すものではなく目安としての記録です。つまり、不正確です。
 詩を書いている人の中には朗読しない人も多いですし、なかには朗読して欲しくないという詩を書いている人もいるようです。ベルレーヌが「詩の作法」で「まずもって音楽だ」と書いていますが、正しい方向だと思います。自分としても朗読はしたいと思っています。
 
この2つの要素は散文にはありません。しかし、口語自由詩は何か限界があり、定型化はある程度必要なのかも知れません。それはまた後日投稿させてもらいます。

※ものすごく素直な内容の詩も好きなので、この文章は実際的ではないかも知れません。実作とはかなりずれていることをご勘弁下さい。



散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】口語自由詩と散文との違いは何か Copyright ……とある蛙 2010-01-09 15:28:15
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