【批評祭参加作品】谷川俊太郎インタビューから考えた事
大村 浩一

詩はどこで生きるか
 =朝日新聞谷川俊太郎インタビュー
  「詩はどこへ行ったのか」から考えた事=

 世間的には、詩集も詩論も人の目に触れる機会はどんどん減っているように
私には思える。アマゾンですぐに買える、とか言うのとは別の話だ。ネットで
誰でもすぐに買えるということは、それを誰も大して欲しがっていないことの
証左だ。(人気のあるものは行列しても買えない)
 詩集のようなものは欲しい人だけが読めばいい、というのが豊かなニッポン
の、多様性ある社会の考え方などと言う人は居る。ところが実際には何事にも
経済的な競争がつきまとうせいで、こうした多様性はどんどん根絶やしにされ
てきているのが現実だ。
 漫画「エンゼルバンク」によれば、日本ではトマトは殆ど一種類しか栽培も
流通もされていない。誰でも何でも手に入るように見えて、実はそんな具合に
なっている。本当に安全で美味しい食品は苦労して探さないと手に入らないし、
生産者側もビジネスモデルを懸命に成立させないと持続できない。普通のマン
ガ作家にこんな事を指摘されてしまう、マスコミや農学者や農政の不甲斐なさ
をどう思えばいいか。…話を詩に戻そう。
 私などは、やはり詩に関するものは相応に流通もして、少なくも世間的な存
在価値は主張しなければいけないじゃないかと思う。商業性に対しては安易な
同意はしないが、学問学究的な価値だけでは物足りないし、いまの状況が続け
ば後年、学究的な対象にもなり得なく(広汎な社会性を読み取れないという理
由で)なるかもしれない。
 少なくも平成以降の日本の現代詩が、海外の現代思想が彼らの近代・現代詩
を研究対象にするような、そういう存在であり得るかというと、とてもそんな
状況にはない気が私にはする。松本隆の歌詞なら、塚本邦雄の短歌ならまだし
も。むろん個別の優れた詩集の成果は認めるが、文化的ムーブメントとしては
残念な状況だと思う。
 私にとって詩は、とかく生き辛い現実社会に対して、私がはじめて拮抗でき
る手掛りになったものだ。だから、人が矛盾だらけの社会を生きる方法として
詩がある事を、皆にももっと知って欲しいと思うのだが。それには単に「教科
書に載せる」とかで人に押しつけるのじゃなく、魅力あるものとして見せて演
じて浸透させていかなければ、共有できる手段や価値にはなかなかならないだ
ろう。

 世間からみた現代詩の「唯一のトマト」になってしまった詩人が、谷川俊太
郎さんなのだろう。彼はまさにその「魅力あるものとして見せて演じて浸透さ
せて」きた詩人だと私も思う。それゆえに彼のインタビューなら、辛くもまだ
情報の公器たる新聞にも取り上げられる。
 2009年11月25日の朝日新聞に掲載された谷川俊太郎インタビュー「詩はどこ
へ行ったのか」もまた、私のこの拙文と同様に「詩の影が薄らいでいく」こと
への危機感から試みられた取材記事だ。この 130円で誰でも買える谷川氏の言
葉に対して、何箇所か取り上げて私が思ったことを書いてみたい。

○「詩が希薄になってきた」
 統計的な実証はともあれ、間違いのないところだと思う。瀰漫(びまん)し
ていると谷川氏は書くが、私としてはそれは昔からあるもので、ただそれら作
品のポエジーの源が詩作品である、といった事が無くなってきたと感じる。最
近の芥川賞でも、意識的に現代詩的なメタファを使っているのは諏訪哲史ぐら
いじゃなかろうか。つまり日本の現代詩は今やそういう形で参照されるもので
は無くなってきている、ということだ。純文学あるいは芸術の一ジャンルとし
て、これはゆゆしき事態ではあるまいか。
 何年か前、三代目魚武濱田成男が原作でポエトリーリーディングを素材にし
た漫画が少年マガジンに掲載されたことがあるが、反響は殆ど無かったように
記憶している。瀰漫というより、詩人の側の希望的観測に過ぎないのでは、と
すら思う。それを読んだ人が、詩作品そのものにまで導かれる可能性は非常に
低いのではないだろうか。

○「短歌や俳句も詩ですし、現代詩より圧倒的に強い」
 このコメントの中にある「現代詩の詩集は300冊売れればいいほう」というの
は、実に実直なコメントだと思う。現代詩の芥川賞にあたるH氏賞の受賞詩集
でさえ5,000部前後と聞いたことがある。対する小説のほうは、新書判の推理小
説では新人でも最低20,000部出すと聞くから、一般に対する浸透の差は歴然だ。
 「現代詩より圧倒的に強い」については、この後に彼自身も言及する戦後詩
のことが一因にある。戦後暫く、あれほど現代詩が詩のジャンルとして強かっ
たこと自体が異様だったのかもしれない。これは敗戦後にそれまでの近代詩人
が戦争責任を問われたこと、定形詩はさらに第二芸術論が言われたことで旧来
の詩人が非常な逆境にさらされたためだろう。
 現代詩にあっては、思想的にも左翼系の革新的な人たちが、同人誌や詩誌、
評論によって旧弊に妨げられることなく焼け跡の荒地から意気盛んに飛躍して
いったのに対し、定形詩では技量の継承が昔ながらの「結社」の師弟関係で行
われ続けたこともあって、暫くは時代の変化に対応出来なかったのではないだ
ろうか。
 ところがその優位性が、高度経済成長に伴って商業性が求められるようにな
ってからは、ゆらいでいった。

○「高度資本経済が芸術を変質させている」
 私が現代詩を始めた80年代前半、コピーライターに対する抵抗感が詩人の側
にはあった。「半周遅れたコピーライターになって」という自嘲めいた言葉が、
平出隆の一文にあった事を私は思い出す。
 70年代以降、詩の行き詰まりとは対照的に、コピーライターや作詞家が脚光
を浴びた。ポピュラー音楽でもCMでも(この言い方はどうにもドン臭いが)単
純なものから今日的な感覚を捉えた「面白いもの」が注目されるようになった。
CM界に至っては「逆宣伝」という手法が認められるようになって、表現上不可
能なものはないような錯覚すらあった。
 単純にTVと漫画雑誌で流通できるものが戦後のタイシュー文化を席巻して
いった。その中ではじめはTVなどのマスカルチャーと、既存の文芸などのハ
イカルチャーは並存していたが、徐々にハイカルチャーが侵食されるようにな
った。電波に乗せるに際して楽曲の体裁を整えられる歌詞、CMで流せるコピー
ライティングに対して、現代詩は中途半端に難解で媒体に乗せる形が無かった。
そして現代詩への価値観を背景で支えていた社会主義も、物質的な豊かさに呑
みこまれてしまった。
 詩がそうならずに済む可能性はあった。口語自由詩の本来広汎な浸透性は、
大衆を味方につけられる武器になる筈だった。
 しかし現代詩の詩人も、それに係わる出版社にも、文化に対する主導権を維
持する戦略や努力が無かった。日本にはギンズバーグの様な才能は現れなかっ
た。マガジンハウスの詩の雑誌「鳩よ!」にはメディアとしての可能性があっ
たが、専門出版社に従属した価値観に甘んじたために、結局は失速した。

 それに対して短歌・俳句では、形式を固守するために結社による活動が維持
されたため、詩を作るための技術や知識が継承された。伝統的な詩形式なるが
ゆえに社会的な趣味としての認知もあり、新聞も投稿欄を持ち続けたし自費出
版も専門誌も堅調に続けられてきた。(経済的なバックボーンがあった、とい
うことを言いたい)…それがここまできて、口語短歌認知の動きとともに大き
な隆盛を見たのは印象深い。過去からの知的資源と、新しい才能がぶつかりあ
って、今日活況を呈している。
 しかし逆に言えば、これも現代詩がかつて来た道、と呼べなくもない。短歌
を短歌たらしめてきた文語・文体へのこだわりが知的資源とともに切り捨てら
れたとしたら、短歌は音数・形式が限られる分、なおさら平面的なものに陥り
かねないのではないか。

○「批評の基準が共有されなくなっている。みんな人気で計る」
 人気で計るのは、それが経済性に結びついていることと、近代社会を動かし
ているものが大衆の意識になってきたからであろう。
 それが経済大国ニッポンでは「いいものは売れる」という神話になっている
のだが、これは実際には「最も(大衆の欲求に)適合したものが売れる」とい
う事なのが看過されている。
 現代詩の個々の作品の価値は評価・対比しにくい。定型がない以上、その枠
組みをどれだけ見事に固守し活用できたかなどは関係ないし、宗教的・道徳的
な内容があるかどうかも関係無い。同様に哲学があるかどうかも無関係だし、
歴史的な研究成果があるかどうかも無関係だ。それら思想や知識がどれほど盛
りこまれていようと、言語による詩作品として、イメージとリズムの融合した
ものとして完成して人への共感を得られなければ、理屈っぽい分鬱陶しいだけ
のように言われる。
 大雑把には「それが芸術的に高められているか」というのが評価基準と言え
れば言えるのだろうが、さてこれら全てのことに通じた読者がどれほど居るだ
ろうか。そう考えると、現代の詩の評価基準がけっこう通俗的なところになる
のは避けられないし、谷川氏の「ことばあそびうた」に対してある教諭が『気
持ちを表現していない詩なので、生徒に教えられない』と語ったような誤解を、
現代詩が受ける事態も招く。
 そしてさらに面倒なことに、実際には大衆は、評価の基準を自分では決め難
い。それはネットを見ていてもよく分かる。その基準は教育によって変えうる
し、政治的な圧力でも操作可能である。例えば学者センセイがこぞってTVや
新聞で評価したら、それはやはり「とりあえず名作」にはなってしまうだろう。
詩に対して草の根からの正確な批評が必要な所以である。

○「(職業詩人として、商品としての詩を書くと言明していたがの問いに対し
て)詩の世界全体を見渡した時に、自分がとっている道が唯一だとは思わない。
詩は、ミニマルな、微小なエネルギーで、個人に影響を与えていくものだ。権
力や財力のようにマスを相手にするものじゃない」
○「これからの詩はむしろ、金銭に絶対換算されないぞ、って事を強みにしな
いとダメだ、みたいに開き直ってみたくなる」

 この2文は離れた場所に書かれてあったのだが、谷川氏を通底する作品哲学
のようなので抜き書きしてみた。どうもこの辺に、これからの詩がどうなって
いくかの鍵が潜んでいるような気がしてならない。
 私も若い頃には「いいものは売れる」「良い詩には相応の対価を」などと思
っていた。いま思えばハズカシイし不遜だとも思う。日本教育の平均的水準が
低落していったこの時代に、「売れるモノ」を肯定することは妥協を強要され
る事を意味するし、相応の対価を言うなら出版業界のキビシイ市場競争の中で
定まる価格に対してこそ納得すべきであろうと思う。(それにしたって本の価
格は再販制度でまだ護られているのだが)
 口語自由詩、そして現代詩は誰にでも書ける、言葉による素描だ。そのくせ
読解には読者の大きなエネルギーを要する。音楽や映像など、その他の表現物
に比べて一般大衆はどうにも吸着しにくく、相性は良くない。
 だが、それが良いという面もある。微小な力で描けるということは、その他
のアートではとりこぼしてしまうような、ささやかな声や試みも拾うことがで
きるということだ。それに僅かなテキストなら紙1枚、いや暗唱で口承すれば
紙さえ要らない。そこに、他者に通じる奇跡を期待することは可能だろう。
 無論いまの現代詩の無力さを正義の手形みたいに言う積りは無いし、仕立て
によっては特殊な音楽のような体裁で、差別化されたアートとして大規模に売
れる可能性だってあるが、そういう商業性はすぐさまいかがわしいものと化し
てしまうのが今の世の中だ。ならばいっそ、無力さを武器とした、花を抱えた
ゲリラ戦を構想するのも楽しいではないか。
 金では売り買いされないぞ、というのも良い。どれだけ頑張ってもカネにな
らないしプロにもなれないものなのだから、経済的な束縛からは自由でいられ
る。経済的利害の外側の立場でだけ語れるものが、詩には存在できるって事だ。
経済万能に見えるこの世の中で、これは貴いというか、粋なモノと言えるので
はないか。
 そして、谷川さん本人は文中では決して評価していなかったが、そうした些
細なものを拾いあげられるものとして、ネットという場所をもっと肯定して良
いのではと思う。

 以上、谷川さんへの批評というよりは、詩のありかたに対する自分の意見の
ようなものになった。まだ書き足りないしまとまらないが、ひとまず筆を置く。

2010/1/9
大村浩一


散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】谷川俊太郎インタビューから考えた事 Copyright 大村 浩一 2010-01-09 09:38:42
notebook Home 戻る
この文書は以下の文書グループに登録されています。
第4回批評祭参加作品