山田せばすちゃん『ハンバーグをめぐる冒険』について
田代深子


批評だ批評だ批評が必要だ−佐々宝砂
 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=12681&from=listdoc.php%3Fstart%3D210%26cat%3D5

(だが志向的/試行的/指向的・思考としての〈批評〉は、可能であるのか、為しうるの
のか。批評としての行為、批評としての表現、批評としての運動−それもまた。が、とに
かくは書こう。)



山田せばすちゃん『ハンバーグをめぐる冒険』について
 http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=58&from=threadshow.php%3Fdid%3D16825

 村上春樹の小説『羊をめぐる冒険』で、主人公がハンバーグを作る場面がある。人里離
れた山荘まで友人を捜しにきたものの姿はなく、無為のまま彼を、あるいは何か変化が起
きるのを、その山荘でひとり待つときだ。主人公はハンバーグをたいへんまっとうに作り
ながら考える。
〈ここで山小屋風レストランが開けそうだ〉〈鼠が経営し、僕が料理を作る。羊男にも何
かできることはあるはずだ。〉〈ジェイ、もし彼がそこにいてくれたなら、いろんなこと
はきっとうまくいくに違いない。全ては彼を中心に回転するべきなのだ。許すことと憐れ
むことと受け入れることを中心に。〉
 “約束の地”の「ほうへ」。ハンバーグはそのとき漠然とした希求の具象となる。

 ファミリーレストランの看板メニューは昔からハンバーグなのであるが、これには理由
があって、子ども達の人気料理であるにもかかわらず、家庭で忙しく作るには、いささか
面倒なのである。複雑な調理が必要なわけではないものの、玉葱の処理は手間で、挽肉を
こね丸めるには手が派手に汚れ、中まで巧く火を通すにもコツがいる。語り手は三児の父、
その妻は今日、夕食づくりにめげている。ファミレスに来て全員で、日常なかなか食卓に
はのぼらないハンバーグ、家庭の夕飯と同様みなが同じものを食べる。これは悪くない選
択だ。しかし、せっかく色とりどりのメニューを前に、遊び心のないことではある。なに
しろ父親=語り手にとって関心事は、いま別のところにある。
 なかなか肉づきのいい腰をもった女性店員が口にする奇妙な一連の言葉遣い…〈お席の
ほうご案内します〉〈こちらがお席の方になります〉…習慣的に使われている、多分に曖
昧な用語法の数々に、この語り手は気をとられている。「ほう」というのは大づかみな方
角や方面を指す語であって、確定した一所を指す場合には使わないのではないか? 偏執
的にも語り手は気になってしかたがない。さらに追い立てるように〈お水の方はセルフと
なっております〉…〈今度ばかりは彼女が指差したその方角に〉給水機器があるが、店員
が言ったのは「水のある方向」ではないはずで、「お水は」と言えばいいところに余計な
修辞語として「ほう」を加えたのであるから、違和感はここにもついてくる。
 しかし彼女の言葉遣いは果たして間違っているだろうか。広辞苑の記述を要約すると、
 ほう【方】(1) 向き(方向・方角/方角の吉凶/話し手や聞き手がその話で関心を向け
        ている方面/話そのものをぼやかしてその部面であることを言う語)
      (2) 正しいこと/四角/平方/一定の土地
      (3) 見当・てだて(しかた・やりかた/香や薬の調合法/医術などの道)
となっている。店員が使ったのはいずれの場合も“話そのものをぼやかしてその部面であ
ることを言う語”としての「ほう」であると考えられる。どの地域言語にも、断定的もの
言いを避け語調を和らげる語用法があるが、日本語標準語においてもそれは多様だ。客に
対して言語のみで明確な指示を出すより、実際に水のある方向を指し示しながら「お水の
ほうは…」言ってしまうのは親切であり、後半部はなくていいくらいのものだ。むしろ大
間違いはこの後半部にひかえていて、〈セルフとなっております〉…「セルフサービスと
なっておりますので、あちらからお持ちください」と言うのが、おそらく正確であろう。
 ともかくも語り手は違和感に取り憑かれてしまった。そもそもこの人物にとって〈返事
もままならぬ〉状態からしてが違和のもとなのである。たたみかけられる商業用慣用句が
コミュニケーション拒否の表明だからだ。ファミリーレストランの日曜・夕食時は混雑し、
店員は目も眩むほど慌ただしい。どんなに女性店員の表情がにこやかであろうとも、その
腰つきが魅惑的であろうとも、彼女は客からの反応など一切期待しておらず、それどころ
か余計なことは何一つ言わせまいという構えである。語り手の感じる違和感は、実は店員
の「誤った言葉遣い」などに原因があるわけではない。言語の「正しい」用法などあっと
いう間に変化してしまうものだ。そんなものではなく、忙しいなら「あちらの空いている
お席へどうぞ」ですませてしまえばよいところ、マニュアルに従って客を案内しマニュア
ルにある台詞を出任せに簡略化して言わなくてもわかるような要件を伝え、とっとと次の
仕事にとりかかろうとする、その身ぶりが、語り手に違和感と不快と孤独感を感じさせて
いる。
 そんなわけでこの語り手は、「また来ていただく必要なんてありません、俺たちが望ん
でるのはただの夕飯なんですから」とばかり去ろうとする店員を呼び止め、家族の希望も
聞かず、最も日本ファミレス的な注文−ハンバーグ・コーンポタージュ・ご飯−を申し渡
す。これは言葉遣いの隅々ににひっかかりを求め、その違和をいちいち言い立てようとす
る態度と根を同じくする。卑屈、そして偏屈な態度と言ってしまえるだろう。が、作品に
ただようのはむしろ哀れげなユーモアだ。何故ならここまででは結局、彼は冷徹な資本主
義原理の勢いと流れに負け続けるしかなさそうだからなのである。 
 しかしてここに〈正真正銘ハンバーグそのもの〉が登場する。〈正真正銘ハンバーグそ
のもの〉であるはずのものが。それは待ち続けた家族のもとに、混雑をかき分け美味しそ
うな匂いと音を立てやってくる。が、さあ食べよう、というそのとき、

  ハンバーグに
  なります

語り手は捕らわれてしまう。かねてよりの言語へのこだわりと違和感に。

  これがハンバーグに
  なります

  いつ?

 その言語へのこだわりを捨て、一口を食べてしまえば、あるいは目前のハンバーグらし
きものは〈正真正銘ハンバーグそのもの〉である明証性を得ることになるかもしれないの
である。いや、無限の語を費やしても到達できないであろうハンバーグであることの明証
は、食べてしまうことでしか得られない。しかし語り手は捕らわれることを、むしろ選ぶ。
そして資本主義原理に則ってさっさと食べさっさと席を空け家に帰ってテレビを見るとい
う、彼の住む馴染みの世界から逸脱して、この資本主義的違和的ハンバーグが〈正真正銘
ハンバーグそのもの〉〈になる〉〈そのときを〉〈待つ〉ことになる。
 目前の未ハンバーグに導かれ、〈正真正銘ハンバーグそのもの〉があるはずの茫漠たる
世界の「ほうへ」、彼は足を踏み入れる。いや、足を踏み外したというべきか。そこに温
かい会話のあるレストランが? 妻の疲れをいやすゆったりしたテーブルが? 子ども達
の夢を叶えてくれる驚くべきドリンク・バーが? そんなことはわからない。それでも、
その世界の「ほう」を指向し続けることを、選び続けていく。
 空腹と孤独に耐え、執拗に。

                                   2004.9.20


散文(批評随筆小説等) 山田せばすちゃん『ハンバーグをめぐる冒険』について Copyright 田代深子 2004-09-22 07:05:22
notebook Home 戻る  過去 未来