知るひと
恋月 ぴの

すべてを失ったはずだった

あれから家に辿りつくまで幾度と無く転んでしまい
死装束にと亡き父に誂えてもらったリクルートスーツ着てきたのに
あちこちに鍵裂きを作ってしまった

死への船出がこんなにも怖いものとは思わなかった

命からがら涙と鼻水を袖口で拭い
もげたヒールに膝をがくがくさせながら自宅に辿りついてみれば
家族の皆がわたしを心配してくれていた

「俺、明日から仕事探してみるよ」
引きこもりで学校もろくに出ていない弟が殊勝なことを言ってくれ

気付けば介護無しに起き上がれないはずの母は台所で石狩鍋の下ごしらえを始め
不肖な弟はそんな母の手伝いにと甲斐甲斐しくも精を出す

そして、わたしには見向きもしない飼い猫まで
足元にまとわりつき片時も離れようとはしなかった

鍋を囲む湯気の向こうには心底安堵したような表情ふたり
いつものと同じ無口でも
これこそ家族の絆なんだと実感できる、あたたかさが確かにあった

お仏壇にも石狩鍋と蜜柑のお供え
久しぶりに灯したろうそくの炎
お線香のくゆる香りまでもわたしの帰りを待っていてくれたようで

ねんねこを羽織った女のひとに続いて乗船タラップを渡る際
目深にかぶった船員帽からわたしを値踏みする亡霊の腐臭漂う眼窩に慄き
乗船寸前のフェリーボートからどうやって逃げてきたのだろう

お前は逃がさぬと首根っこ摑まれそうになったのだけは覚えているのだけど…



身体のあちこちにできた擦過傷も何とか癒えてきて
久しぶりにあの鍵穴でも覗いてみようと小春日和の黒塀を訪れてみれば
なんてことか、それは紛うこと無く板材に開いた節穴に過ぎなくて

「お前の目は節穴か」

そんなことばの意味合いは自分自身のこころうちにあることを知る



自由詩 知るひと Copyright 恋月 ぴの 2009-11-30 22:02:12
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