絵描きと詩人
プル式

久しぶりに散文を落とそうと思った。なぜってまぁ、仲治君の散文を読んだから。途中までだけど。面白かった。続きはまた読もうと思う。なんだかんだで、僕は仲治君の散文が好きなのだ。あと、イカイカさんも。イカイカさんってまだいる?前に久しぶりに見た気もするけれど。


「絵描きと詩人」

絵を描いていて、不意に「あー、こりゃボツだな」というものがあったりする。下書きでダメならまだしも、着彩に入ってしまうと、その衝撃たるやもう、となる。下書きがパーペキならなおさらだ。
そんな時、小学生時分などはわざわざ破いて、先生から新しい紙を貰ったりしたのだが、大人になってくると、経済的問題で破り捨てる訳にも行かない事が多くなってくる。それから、純粋に「勿体ねぇ」という意識であったりもする。で、そういう時、どうするか。僕の場合、そのまま塗り終えて、放置する。放置して、放置して、放置して、思い出した頃にもう一度見る。で、削ったり、重ねたり(ま、主に重ねてから削るのだけど)をする。それは、失敗だと思う思考そのものを頭の中から削除する作業だったりするのだけれど、その性で、無駄な時間が確実に増えているのかもしれない。ただ、そうやって出来上がった作品は、一発で仕上がった作品よりも、確実に上質な身がついた作品になる。

たぶん、それは現代絵画(現代日本画は含む)だから出来る事で、(追加という作業において)デザインではそれはマイナスにしかならない。いや、その不要の追加こそが、デザインにおいての「これはボツだ」なのかも知れない。なぜなら、デザインはマイナスの美術だからだ。言ってみれば、デザインは出来るだけたくさんのレゴブロックが必要で、その雑然とした中から、最後に一つの「最高の飛行機」が作れればいいのに対し、現代絵画はこまこまと作り上げながら足して足して、削って足して、と増設して訳の分からないものを飛行機にかえて行く作業。

さて。

詩を書くとき「これはボツだ」と思う作品が出来てしまった場合、あなたは、どちらの道をとるだろうか。削って整頓し、そぎ落とし、原点を求めるだろうか。それとも、そこに、新しい要素を加えて膨らみや、奥行きのある作品を目指すだろうか。はたまた、いっそうの事、それを破棄してしまうだろうか。出来れば(個人的に。あくまで個人的にだが)破棄はしないで欲しい。そこには少なくとも、その時の自分の心のかけらなどが入っていると思うのだ。

※なぜ現代絵画、現代日本画でしぼったかと言うと、その二つの境目は「今や画材でしかない」と大雑把に言えるからです。デザイン論、美術論、芸術論など、様々な視点、観点があるが、個人的には全て折衷の出来る内容だと思っています。加えて言うなら、デザインにも美術的な要素は多分にあり、一概に言える物ではない、というのも、筆者てきには重々承知した上での記述です。上記以外で、マイナスでの美術というものもあり、それだけで判断できる物は限られていると言う事も、知っています。

最後に、この様な特筆はあまり好きではないことを添えて。

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どうでもいい余談だが、ヌードデッサンをしたい時、僕はデリヘルを使用していた。彼女たちは切符よく脱いでくれるし、深い表情(色々な想いをもった人ならではなのかもしれない)をしてくれる。絵描きにとってそういったモデルは宝物だし、個対個ならではの絵がかけるのだ。(もちろん、売る時にはその個人に了解を得なければならないが、それだって多少、絵の値段に色はつくという特典もあったりする)というわけで、どうだね、画学生諸君。


散文(批評随筆小説等) 絵描きと詩人 Copyright プル式 2009-10-21 13:39:27
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