帰路
夏嶋 真子

夕暮れの風が民家の風鈴を鳴らし、
茜色のまなざしで今日をねぎらうように、わたしの頬を撫でてくれる。
その涼しさに、ほっとして深く息を吐く。
庭先には、萎れた朝顔が脱ぎ捨てた服のように垂れ下がり、
その隣では明日の蕾が夢の中。
お向かいの家では、夏の名残りの薔薇が白い花びらを黄昏に染めている。

思えば、花々の多い町だ。
多くの家々が、緑や花で彩られ
鮮やかな花とそれを育てる人の心の、アーチを潜るような道を歩く。

公園からは蝉時雨。
昨日までとは違う力ない蝉の声に
季節がうつりかわるその瞬間を感じて、寂しさがこみあげる。
夏は今日で、終わるのかもしれない。


商店街にさしかかる。
塀の上でいつもの猫が、
「また、おまえか。」
という顔で私を見下ろす。
「教授」とわたしが勝手に呼んでいるどこかの家の飼い猫。
本当の名前はぴょん太だということを、近所のこどもたちが教えてくれた。
(ぴょん太教授、携帯で写真を撮るのもこれが最後です。どうか元気で。)
声に出さないひとり言がついつい長くなるが
猫は素知らぬ顔であくびをしている。


記念撮影を無事終えると、お腹の虫がなる。
甘くて香ばしい匂いにつられて鯛焼きを買った。
店のおじさんと、
「たべるなら頭からか、尻尾からか?」
そんな他愛ない会話の中で、今までどれだけ笑顔をかわしたことか。
どれだけ、おまけしてもらったことか。


その先の鰻屋から出てきた老婆と息子が、なにやらもめている。
「かあさん、いいよ。オレが払うって。」
「いやいや、あんたは今度、家族に食べさせてやんなさい。」
「いいよ、かあさん…。」
なぜだろう、そんな光景が鼻の奥にしみて泣きたくなる。



この町に移り住んでから、建物に切り取られた狭い空に
呼吸が苦しくなることがなくなった。
びっしりと密集した建物と電線の隅間に浮かぶ、
乱雑な空の形には、人が住んでいるから好きだ。
この空も、この道も、この町も本当に好きだった。

どこにでもある当たり前の帰路の途中で
どれだけの想いをあたため、
どれだけの苛立ちを空に放ち
どれだけの悲しみに震えたことだろう。

けれど、これが最後の帰り道。
もう二度と歩むことのできない帰り道。

明日、わたしはこの町を出て行く。
町の隅々までを記憶の箱庭にかえ、




ちっぽけでいとおしいこのてのひらにのせて。









散文(批評随筆小説等) 帰路 Copyright 夏嶋 真子 2009-08-24 11:19:41
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