読めない人へのラブコール
木葉 揺

読もう。というのは結論ではありますが、その前に私的事情を・・・
ワタクシ、恋愛と読書がドクターストップになった女でございます。
「恋愛は分かるけど、読書!?」という声が聞こえてきそうですね。
二つ理由があるかと思われます。

・一つ目:思考してしまう傾向にある。
心療内科でロールシャッハテストという心理テストをしたことがあります。これは、こぼされたインクのしみの形から思い浮かぶものを答えるのです。で、私は、どうやら「シミの色が一色の場合は全体の形を答え、多色になると、たちまち色別に細々と説明し始めた」そうです。
そして読書において、どのような現象がおきているか。多分、全体の大意がつかめず、単語に区切って、イメージで思考する。
いいじゃない!なんですが、ある具合のときにやると、単語から連想して、
本筋からどんどん離れて頭が熱くなってちゅどーん!です。はい、グッタリ。
元に戻ろうとするけど、いつまでたっても戻らない。
なんとなく意味ががつかめるのは、心身ともに安定し、ゆとりのあるときかなぁ・・・
だから、大意をつかむ練習は比較的元気なときにするのです。

・二つ目:よく理解してないのに肌感覚で「わかってしまう系」に出会っちゃったとき絶望する傾向にある。
私は中学生のとき、宿題かなんかで、太宰治の「人間失格」を読みました。選んだ理由はたまたま母が読んで、家にあったからでした。
もちろん、文才も芸術の才もない私ですが、読んだときに怖かったです。
その怖さは「なんかわかる・・・(部分的には)同じ」なんか自分の運命も見えたような気がしました。でもそのときはまだ、発病しておらず、精神的にも強かった。
いいんだか悪いんだか、自分に「何にもわからなかった!」と暗示をかけ、一生懸命「なぜそうなるのか理解できませんでした。」という感想文を書きました。それ以来、怖くて太宰を読んでいません。大学生のころ「知ってるつもり系」の番組で、太宰をやっていたとき、チラッとだけみたのですが、また太宰の一言がドンピシャ。それはある意味、感動でもあるんですが、動かされすぎなんですよ、要するに。
 まぁ、長期に及ぶ発病は、その後なんですが、かなり具合の悪いときに自分を救おうとして読んだ本で「わかってしまう系」に出会ってしまって、病状悪化してしまったことあります。そのとき、「怖い。よくわからんけど、とりあえず読書はしばらくお休みや!」そう思って、医者に相談。。。そして、とりあえず、忘れるように・・・忘れるように・・・そうすることで浮上。
 
 今はおかげさまで、病気を治すことを本気でやめた、あきらめた。「病人として堂々と生きてやる」と開き直ったら、どんどん病気が回復しました。今でも具合の悪い日が続いたりしますが、前ほどはひどくないです。(「お薬持って、嫁においで。お留守番だけが仕事だよ」と言ってくれた主人に引き取られたのは大きい)。
 今そんな私を悩ますのが読書。「詩を書くには、読まなきゃいけない」、今年になって詩の魅力を知った。勉強もゆっくりながら始めた。でも同年代の人と比べても仕方がないけれど焦ってしまう。。。でも今は具合の悪い日は、キケンな雰囲気がするので読まないです。あ、読めないです。どちらでしょう?
 そんなとき、やっぱ、あせって自分を叱責してしまう。それも心当たりのある方がいるかもしれないけど、具合が悪くて読めないときに限って、「読まない自分を責める」んですよね。「ごめんなさい、勘弁してください」という日がちょっと続いてました。

それでも詩がやりたいんか?と言うとそうなんです。
とりあえず、長めに生きながらえて、ボチボチがんばりますわ。
確かに一般的に「インプット(読書)9」なら「アウトプット(詩作)1」くらいが理想だと聞きました。でも私にとってはイキナリは無理なんで、何年かかけて近づいていく。
現状逆転してる人もいるかと思います。
まず、「それでいいじゃないか」
その次に「インプット2」に対し、「アウトプット8」
その次に「インプット3」に対し、「アウトプット7」・・・しだいに近づいてゆく。
そのときに「3しか読んでないから、8書いちゃダメだー!」と私なら思ってしまいそう。融通がきかない性格なもんで(笑)書かなきゃ苦しいときはいくつでも書く。臨機応変。(自分に対しての心がけ)
 
 人が発する言葉を受け入れやすい人間って、よく自分を否定してまで相手の言葉を取り入れます。健康な人や強い人は、上手に取捨選択ができて、都合悪い発言は捨て自分を保てます。 
 たまには見習おう。自分の気持ちより、相手の気持ちを考えが美徳だと思ってしまい、なかなか難しいでしょうけど。
 自分にとって重圧になる言葉は捨てて、誰に何言われても自分だけのペースでやっていこう。長く詩と関わりたいなら、根を詰めないように、ゆっくり休みながら・・・結局は自分を守れるのは自分だから。
あ、あと理解者ね!

いいんだか、悪いんだか、具合が良けりゃ、こんな風に読めるんです。
「中原中也」を読んで、言いようのない感動を覚えました。詩のことはよくわからん。でもビシビシ肌に感じるこの感覚!腹を抱えてゲラゲラ笑ってしまいました。間違えてる?
あと「萩原朔太郎」の嘆きっぷりも、最近なんか可愛く思えてきました。おかしい?
 たぶん喜劇と悲劇は紙一重(と感じる人種)で、そのキワキワ感が感動なんですよねー。具合の良いときは大笑い。悪いときは絶望・・・極端ですよね!

もっと明るい人も読まねばならないけど、読みやすい方が先です。共感しにくいものは、より一層パワーが必要だから。
 
もしも嘆いたり、悲しんだり、好んでしてしまう(ように見える)人のことを見たら、責めないであげて下さい。もしかして、うっとうしい対象かもしれません。
でもそういう性格も個性であり、いろんなタイプがいるから、世界はおもしろい。嫌いなら関らなければいい。でも分かり合えたら、尚、世界はおもしろい。
 相反する考えの人間を、自分の考えを否定してまで、理解しようとすることは、
時に感動的な結果をもたらします。今まで知らなかった価値観が広がっています。
オススメではないけれど、そういうこともたまには良いんでは?
ということで終わりにします。


散文(批評随筆小説等) 読めない人へのラブコール Copyright 木葉 揺 2004-09-06 21:52:45
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