東京少年 「新宿」
虹村 凌

 俺は急に眩暈の様なものを感じ、
「ちょっと便所」
 と短く言って、席を立った。
 足が別の生き物の様に、前に進む。ラバーソールの厚い底を通して、床板の軋む感覚が伝わってくる。平行感覚がよくわからない。俺は、真っ直ぐ歩けているのか。柱につかまり、体を預ける。二階にある便所への階段も、手すりに捕まりながらようやく昇りきった。
 二階の便所のドアには、雪隠と書かれた板が下がっている。俺はドアをノックして、反応が無いのを確かめてから、流れ込むようにトイレの仲に駆け込んだ。個室になっているドアの鍵を閉めると、俺は便器の上に覆いかぶさるようにうずくまり、喉に指を突っ込んだ。真っ赤なものが飛び散って、すえた匂いが立ち上ってきた。
 吐いたら負けだ、と思っていたが、どうにも耐えられなかった。




 また朝が来た。来て欲しくも無い朝が来た。何の変哲も無い朝を憎む人間はあまりいないだろう。ましてや祝日の朝だ。殆どの人は喜ぶ筈であるが、俺だけは、この朝が呪わしく、憎かった。俺は「朝が来た」と言う現実を、嫌々ながら受け入れた。文字通り、枕に張り付いた顔を引き剥がし、タオルケットを跳ね除けた。ヒリヒリする顔を指で触ると、ベタベタしたものが付着していた。
 どんなに願っても、明けない夜は無い。眠ったまま、朝なんか来なければいいと思うが、矢張り、朝は来る。痛く、苦しい事しかない朝が、俺は大嫌いだった。
 ベッドと一体化している引き出しをあけて、新しいトランクスとタオルを掴んで、風呂場に向かった。朝の何が嫌だって、起きた瞬間の次にこれが嫌なのだ。ただでさえヒリヒリとする顔面中についた、薄黄色い体液を洗い流さなくてはいけない。俺はシャワーを浴びながら、小さく呻き声を上げた。耐えようと思っても、この鋭い痛みが、なかなか耐えられない。硬く握った拳を開き、頭を抱え込んで緩やかなお湯で流す。
 アトピー性皮膚炎。それが俺が患っている病気の名前である。幼い頃から患っていた訳じゃない。半年程前、急に両腕の間接が痒くなり、気付けば前進に広がっていた。特に、顔周辺の皮膚は酷く荒れ、古い角質と体液が折り重なり、茶色い迷彩色を作り上げていた。
 シャワーを止めて、脱衣所に出る。リビングから、ラジオ体操第二の音が聞こえる。毎朝、祖母がテレビでラジオ体操をみながら一緒に体を動かしているのだ。俺はどうも、このラジオ体操第二の音が好きではなかった。水滴が沁みる部分を叩きながら拭き取り、新しいトランクスに足を通し、リビングに出た。
「おはよー」
 祖母は何時もと同じように、ラジオ体操を続けたまま挨拶をした。この祖母は呆れるくらいに元気だ。昨日も、友人達と終電ギリギリまで飲んだ挙句、最終電車に乗れたはいいが、寝過ごして一駅先の駅で起き、タクシーに乗ろうにも長蛇の列に嫌気が差し、夜道を一人で歩いて帰ってきた、と言うツワモノである。それでも70過ぎである。流石に、夜道を老人一人で歩かせたくは無かったので、連絡のひとつくらい欲しかったのだが、面倒だったらしい。
「おはよう」
 祖母の前を通過しながら、リビングから俺の部屋に入る。
 今年度から、俺は祖母と暮らしている。別に両親が離婚したとかの複雑な理由ではなくて、単に妹が親父の実家に近い中学に受かったので、両親と共に親父の実家に帰り、その中学に通う事になったのだ。俺は母方の祖母と同居しながらこちらの高校に通い続ける事になった。その俺と祖母は、小田急線沿いの祖師谷大蔵と言う駅の近くに建っている、マンションの二階に位置する小さめの3DKのその部屋に同居していた。
 リビングから襖一枚で隔てられた俺の部屋で、黒いジーンズに足を通し、背中にだけプリントが入った黒いTシャツを頭から被って着ると、リビングに戻った。祖母は、終わりに近づいたラジオ体操に呼吸を乱しながら、朝飯はいるのか、と聞いてきた。
「いや、もう家出るからいらない」
 俺はそういって、食卓の上に転がっているセブンスターを掴むと、緑色の100円ライターで火をつけた。アトピー患者が煙草を吸うとは何事か、と言われる事があるが、俺としては精神的ストレスを解放する事を第一に考え、煙草を止めない事を決めたのだ。
 しばらくテレビ画面を眺めていたが、やはりラジオ体操第二のメロディーを聞き続ける事が出来ず、灰皿で煙草をもみ消してから自室に戻った。オレンジ色のユニクロのパーカーと、茶色いゴールドウィンのニット帽を見につけて、黒いリュックを背負って部屋を出た。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
 祖母は画面から目を離し、俺の方に顔を向けたまま、ラジオ体操第二を続けていた。俺は食卓の上のセブンスターを掴んで、
「行ってきます」
 とだけ答えて玄関のドアを閉めた。
 待ち合わせの予定は昼近くだったが、目が覚めてしまったので家を出た。どうも落ち着かない。起きてから5回ほど携帯電話を開いて確認したが、特に何も無い。とにかく、12時まで待つしかなさそうだ。俺は近所のコンビニで漫画を立ち読みしたりして、どうにかこうにか時間を潰したが、それでもまだ待ち合わせまで4時間はある。仕方なしにコンビニを出て、新宿駅に向かった。


散文(批評随筆小説等) 東京少年 「新宿」 Copyright 虹村 凌 2009-07-10 10:05:15
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