面接(16)
虹村 凌

 俺は改札を離れて、家へと向かった。いや、正確には、改札を離れてから家に帰ってきた間の記憶が、すっぽりと抜けているのである。俺が何を考えて、どういう経路で帰ってきたのか、全く記憶にない。とにかく俺は家に帰ってきていて、リビングのソファに腰かけて、セブンスターを吸っていた。崩れ落ちそうな灰に気付いて、ゴミ箱の中に落とす。小さな音を立てて、固まりかけた白いティッシュの上に着地した。
 俺は立ち上がって、ゴミ袋を取り出して、家中のゴミを袋に突っ込むと、その袋を持って外に出た。ゴミ収集室に放り込んだ。グシャリと音を立てて、棚の上を転がるゴミ袋が止まるのをを見届けてから、ゴミ収集室を後にした。ナンプラーの匂いがまとわりついて離れなかった。それが、嫌だとも思わなかった。

 そろそろ夕暮れになろうか、と言う時になって、ドアの鍵を開ける音がした。
「ただいま」
「おかえり」
 彼女は疲れた顔で部屋に入ってきた。
「どうだった?」
「うん、心配は無いって。骨折っただけで、後遺症とかも残らないって」
「そうか。良かったね」
「うん」
 心配して泣いたのだろう、目蓋が真っ赤に腫れあがっていた。
「目、凄い腫れてるよ」
「うん」
 彼女は小さく俯いて、荷物を下ろして、俺の隣に座った。フワリ、と彼女自身の香り、汗、病院などが入り混じった匂いがした。彼女は頭を俺の肩の上に置き、大きく息を吐いた。
「疲れちゃった」
「うん。お疲れ様」
「お風呂、入りたい」
「うん。入れてくるね」
 俺は立ち上がり、風呂場へ向かった。脱衣所のドアを閉めると同時に、軽い吐き気に襲われた。理由はよくわからない。罪悪感とか、そういうのかも知れないし、違うかも知れない。そもそも、吐き気に教われてたのかすら、よくわからなくなってきた。俺は風呂場に入り、中を軽く流した後、お湯を張るべく、栓をした。白い湯気が立ち上り、室内の空気が湿気を帯びて、重たくなっていくのがわかる。小さい深呼吸をひとつして、俺は浴室を出た。
 リビングに戻ると、彼女はスプーンを目の上に乗せていた。
「ちゃんと冷やした?」
「うん」
 彼女は首から上だけ天井を向いたままで答えた。
「もうちょっとで、お風呂入るから」
「うん」
「入浴剤、入れる?」
「この前、ラッシュで買った奴がいいな」
「ん」
 俺は洗面所に戻って、入浴剤を出すと、風呂場の入り口に置いた。お湯が溜まっていくのを見ながら、煙草に火をつける。湿った空気が、浴室から洗面所に流れ出る。
 気がつくと、彼女が後ろに立っていた。
「もう、お湯溜まった?」
「ん?あぁ、もう少しかな」
「二人で入っても、まだかな」
「二人で入れば、もういいかも」
「じゃあ、入ろうよ」
「うん」
 電気のつかない暗い脱衣所で、二人はもぞもぞと服を脱いで、湿った空気の浴室に入った。俺は入浴剤に手を伸ばし、湯船の中に入れた。緑色の粉は、まるで水中で立ち上るきのこ雲のように広がって、急速に溶けていった。
 俺はお湯の温度を確かめて、自分と彼女にかけ湯をしてから、ゆっくりと湯船に使った。彼女も続いて、湯船につかる。彼女は俺によりかかるようにして、湯船の中で二人、座った。沈黙が続く。疲れている彼女に、言うべきなんだろうか。正直、迷いがある。今、言わなきゃいけない気がするけれど、正直、今の彼女に言うべきかどうかがわからない。言うべきじゃない気がする。でも、この機会を逃したら、何時、言えるのかわからない。
 長い沈黙が続く。聞こえるのは、二人の呼吸の音と、浴槽から溢れ出たお湯が、床を叩く音だけだった。
「ねぇ」
「ん?」
「何か喋って」
「うん」
「何でもいいから」
「…何でもいい?」
 今しか、無い。
「俺、さ。普通じゃねぇんだ」
「ちょっと変わってるだけだよ」
「違うと思う。君は、一人の時に、自分が見えたりする?」
「どういう事?」
「風呂場とか、冷蔵庫の中とか、色んな処から出てくるんだ」
「自分が?」
「うん」
「幻聴とか幻視とか、じゃなくて?」
「よくわからないけど、俺自身がいる。鏡でも見るみたいに」
「それで?」
「そいつと喋る」
「喋るの?」
「会話する」
「何を?」
「決まった何かを喋るんじゃない。その時にあわせて、内容は変わる」
「例えば?」
「俺は正しいのか、間違っているのか、何をするべきかって」
「誰もがやる自己対話みたいなのじゃないの?」
「自己対話くらいなら、誰でもやるだろうけど、俺は俺と喋ってるんだ」
「…」
「君は、そういうの無いでしょ?」
「…」
「俺は病んでるのかな。多分、そうだと思う」
「それとね、多分、色んな感覚も普通じゃない」
「…どういう事?」
「いつも、ブレーキかかってる」
「何に?」
「色んな感覚。楽しいとか、嬉しいとか、淋しい、とか悲しい、とか」
「いつも?」
「うん、殆どいつも」
「あの時も?」
「君の前で泣いた時?」
「うん」
「あの時は、半分本当で、半分嘘かな」
「どういう事?」
「嬉しかったのは本当。でも、嬉しくて泣いたんじゃなくて、泣いたら楽になるとか、ドラマっぽいとか、そういう事考えてたのも本当」
「…」
「でも、それだけで泣いたんじゃない。嬉しかったのも、本当に、本当なんだ」
「今は、何で泣いてるの?」
「嬉しいのと、あり難いのと、悲しいのと、申し訳ないので、泣いてる」
「それだけ?」
「それだけ」
「そう…」
「それとね、倫理観も世間一般とは違うと思う」
「え?」
「幸せになりたいなら、何してもいいと思う」
「どういう事?」
「幸せになりたいなら、世間一般で言う浮気もありだと思う」
「したの?」
「帰るべき場所を忘れさえしなければ、いいと思う」
「浮気、したの?」
「本気にさえならなければ、いいと思う」
「したんだ」
「好きな人が、いるんだ」
「…」
「ずっと前から、好きなんだ」
「忘れられないの?」
「忘れられないんだ」
「いつから?」
「君と出会う、ずっと前から」
「会ったの?」
「会った」
「いつ?」
「昨日」
「…私が出た後?」
「うん」
「何したの?」
「…」
「したんだ」
「…」
「ねぇ。どうして?」
「…」
「どうして、最初に全部言ってくれなかったの?」
「怖かったんだ」
「何が?」
「俺、君と一緒にいられて、凄く幸せだった」
「好きな人が、他にいるのに?」
「うん。それでも、君の事も好きだったし、凄く幸せだった」
「最低」
「わかってる」
「わかってない」
「そうかもしれない。でも、嘘じゃない」
「…」
「俺、君と居られて、本当に幸せだったよ」
「ねぇ、気付いてる?だったよ、って過去形になってるの」
「うん」
「もう終わりなの?」
「…それは、わからない」
「どうして?」
「終わりには、したくない」
「なのに、何で過去形にするの?」
「終わりになるかも知れない、と思ってるから」
「どうして?」
「…俺はきっと、許されない事をしたから」
「そうだね」
「…」
「ねぇ、私の事、好きなの?」
「好きだよ」
「どうして?」
「一緒にいると、落ち着くんだ」
「じゃあ、君の好きな人は、どんな人なの?」
「よくわからない」
「何で?」
「頭、おかしいんだ」
「そんな人が好きなの?」
「…うん」
「どうして?」
「俺が、おかしいからかも知れない」
「…離して」
 俺は、ずっと体に廻していた手を解いた。彼女はクルリと向き直ると、唇を押し当てて、舌をねじ込んできた。彼女の右手が、俺の股間を弄った。
「…」
「ねぇ、私が変な女なのも知ってる?」
 彼女は唇を離して言った。二人の唇の間に、細い銀色の色が引いていた。
「それでも、十分じゃないの?」
「…違うんだ」
「何が?」
「違うんだ、色々と」
「どういう事?」
「誰としても、何をしてても、いっつも違和感があるんだ」
「どんな?」
「アイツと違う、って」
「そんなの当たり前じゃない」
「それがずっと離れないんだ。匂いも、感触も、タイミングも、何もかも全部」
「忘れられないの?」
「…そういう事だと、思う」
 俺は俯いて、黙り込んだ。彼女は立ち上がって、そのまま浴室を出た。


散文(批評随筆小説等) 面接(16) Copyright 虹村 凌 2009-06-21 00:33:15
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