面接(12)
虹村 凌

 湯船の中に身体を沈めて、肺の中を空っぽにするまで息を吐き出した。
「おい」
「何だ、珍しいな。お前から俺を呼ぶなんて」
「聞いてただろ?あいつが帰ってきやがった」
「何だお前、今更そんな事言いやがって。わかってた事だろうが」
「そうなんだが、どうも実感が無かったんだよ」
「実感が無いってお前…」
「うん、本当に、殆ど忘れてたんだ。そろそろ帰ってくる、ってのは知ってたけど」
「フン。まぁ、そんな事はどうでもいい。問題は、お前がいつ言うかって事だ」
「それなんだ。なるべく急がなきゃいけない」
「だろうな」
「でも、この生活も、悪くないんだ」
「フン。甘っちょろい事言いやがって」
「だって、お前も楽でいいだろう?」
「まぁ、それは認める」
「だから、この生活も壊したくは無いんだ」
「しかし、俺ぁつまんねーと思うぜ?」
「何も無い平地を走るか、ジェットコースターに乗るか、って?」
「このままじゃ、板ばさみになってジェットコースターどころじゃ済まないぜ?」
「それを望んでるのかも知れない」
「何考えてんだお前?」
「わからん」
「わからんって…」
「お前が戸惑うなんて、珍しいこともあるもんだな」
「うるせぇ。てめぇのドタマのイカレ具合に引いてるだけだ」
「ふーん。まぁいいや。じゃ、俺ぁ出るぜ」
 俺は湯船から立ち上がり、栓を抜いて風呂場を出た。その瞬間に、身体が強張る。リビングの明かりがついていて、彼女が帰ってきていたのだ。俺は滴る水滴を拭う事も出来ずに、その場にたたずんでいた。全部、聞かれてた?わからない。ここは、スルーするべきか?どうする?聞かれてたら、スルーは惨めだぞ。まずい、どう動いていいかわからない。どうする?
「お、おかえり。早かったね」
 結局、選んだ言葉はこれだった。
「ただいまー。思ったより早く終わった…って、身体くらい拭けば?」
「あ、あぁ。帰ってきた音が聞こえてなかったんで、驚いちゃって…」
 ここらへんで、何時帰ってきたのか探ろうと思ったのだが、
「ん?今さっきだよ。帰ってきたばっか」
 と言う彼女の答えで、それは失敗する。聞こえて、なかったんだろうか?聞いて、なかったんだろうか?それは果たして、良かったのか、悪かったのか。今の俺にはわからないが、とりあえず、身体を拭いて、リビングでセブンスターに火をつけた。
「あ、晩御飯食べた?」
「うん、帰りに牛丼食ってきた。喰った?」
「うん。私も帰りにご飯食べてきたから大丈夫」
「そっか。あ、風呂の栓抜いちゃったけど、いい?」
「うん。お風呂入ると、余計に疲れちゃうからいいや。一緒に入れなかったし」
「うん。明日、入ろっか」
「約束だよー?」
「でも、また残業あるかもね」
「明日はしなーい。明後日休みだし!」
「じゃ、約束するよ」
 暗い影が心臓を覆ったまま、俺は彼女と指きりをした。楽しい会話とは裏腹に、俺の心は重く、ちっともスッキリとしていなかった。彼女が聞いていない保障はどこにもない。なら、この態度は何なのだ?俺に気をつかっているのか?そう思うと余計に苦しくなる。彼女に全てを話して、受け入れてもらえるのなら、全てを話してしまいたい。でも、もし受け入れてもらえなかったら、この生活は一瞬で崩れてしまう。それはいやだ。また一人には戻りたくない。
「何を考えているの?」
 彼女の言葉が、脳味噌と心臓と鼓膜を貫通した気分だった。心臓が喉から飛び出るかと思った。
「え?」
「ずっとこっち見てるから、何考えてるのかな?と思ってさ」
「綺麗だな、と思ったんだ」
「え?何?いきなり」
「や、働く女の人は綺麗だよ」
「ふーん。ま、いいや。君も、格好いいよ」
「んな事ぁ無ぇよ。俺は…」
と言いかけて、やめた。
「君は、何?」
「いや、なんでもない。眠いからもう寝るぜ?」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
 俺は、喉まででかかった言葉を飲み込んで、布団に潜りこんだ。布団の中で、彼女と結んだ小指を眺める。嘘ついたら、か。嘘じゃなけりゃ、許してくれっかな。そんな事を考えてから、ゆっくりと眠りに落ちていった。

 翌日の業務も、何事も無く終わり、俺は彼女と並んで帰ってきていた。一緒にご飯を買って、お風呂に入って、ご飯を食べて、煙草を吸って。幸せに見える、と思う。事実、俺は幸せだ。自分の中の、もやもやとした霧みたいなものを除けば。
 いざ寝ようとした時に、彼女の携帯電話が鳴った。実家からのようで、祖母が階段から落ちて病院に運ばれたそうだ。両親は旅行中で、なんだかんだと言われ、結局一番近くにいる彼女が、病院へ行く事になった、と彼女は手短に伝えた。声が震えている。動揺しているのが、手に取るようにわかる。残念そうに謝る声が、少し、雑に聞こえるくらいに。
 俺は彼女を見送ると、さっさと布団の中にもぐりこんだ。その時、俺の携帯が鳴った。
「もしもし?」
「あ、出た。」


散文(批評随筆小説等) 面接(12) Copyright 虹村 凌 2009-06-18 23:55:48
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