面接(10)
虹村 凌

 心臓を氷水の中にぶち込まれたような感覚に襲われて、目を覚ました。悪夢みたいなものを見た気がするが、どんな夢だったか思い出せない。心臓が 物凄い速さで、波打っている。喉がカラカラになっている事に気付き、背中に張り付いたシーツと、薄い毛布を引き剥がし、冷蔵庫の前に立つ。中に、何が入っていたか、思い出すのに、少し、時間がかかった。牛乳は、まだ賞味期限が切れていなかったはずだ。

 職場に立つ。彼女は、先にいて、なにやら忙しそうに働いている。一瞬、目で追ったが、いつもの俺であれば、そんな真似はしない。静かに、自分の職務を全うするのみ。昨日までの自分がどんな人間であったかを思い出すのは、容易な事である。昨日までの自分を、覚えていればいいのだから。俺は昨日までの自分を覚えている。だから、違和感など、感じさせるはずが無い。何時間もの間、同じ空間にいる俺と彼女は、言葉を交わす事は無かった。
 何事も無く、また、一日を終える。彼女は、再び、ロッカールームの前で待っていた。通り過ぎる人を、やり過ごす為に、携帯をチェックしているフリをした。姑息だと思うが、今のところはこれでいいだろう。俺は携帯を閉じると、彼女に目配せをした。彼女は静かに歩き出し、俺は黙って三歩後ろに従っていた。
 外に出ても、彼女は俺の三歩前を行く。曲がり角をひとつ、ふたつ、曲がり、横断歩道を渡る。更に1ブロック歩いて、左に折れる。その先の神社の入り口で、彼女は立ち止まった。くるりと振り返ると、ニコリと笑った。ドロリ、と何かが胸の真ん中で垂れ落ちた。
「お疲れ様です」
 俺は平静を装い、精一杯の笑顔で言った。
「お疲れ様です」
 彼女は笑いながら、石階に腰掛けた。ハンドバッグの中からピースを取り出し、ジッポで火をつける。ジッポをしまった彼女は、石段を手で叩き、
「隣、座らないんですか?」
と言った。俺は黙って彼女の隣に座って、同じようにピースに火をつけた。
「あれ、セブンスターじゃないんですか?」
「昨日、気分で買ったんです、ピース」
「浮気するんですね」
「浮気、と言うよりはつまみ食いじゃないですかね」
「女の子も、そうなんですか?」
「いえ、それはないです」
「なんでですか?」
「…」
 良い返しが思いつかない。しかし黙っておく訳にもいかない。
「一途と言う訳じゃないですけど、浮気は、しません」
 正直、言っている最中は自分自身が何を言っているのかわからなかったし、言い終えた後も、何が目的でこう言ったのか、そもそもどう言いたかったのか、ちっともわからなかった。黙って、ピースを吸い込んでは、吐き出した。フォローの言葉も出てこない。
「…」
 彼女は黙ったままだった。あー、またしくじったかな、と思う。しかし、下手に動くよりは、しばらく様子を見たほうが良い、と言う結論に至り、俺はその沈黙をやり過ごす事にした。彼女は石段でピースをもみ消すと、ふぅっ、と短いため息をついた。それでも、俺は黙って耐える。下手に動くと、更に状況を悪化させる。彼女の振る舞いを、視界の端に捉え続ける。
「あの」
 彼女は思い切ったように、短く、それでも力強さを感じる声で言った。
「はい」
「あの、見られてました」
「え?」
「フロアマネージャーに、駅で一緒にいたの、ばっちり見られてました」
「あ…」
「だから、もう、隠す必要ありませんね」
 心なしか、彼女は嬉しそうに言っていた。
「そうですか」
「残念、ですか?」
 正直、残念と言えば、多少残念に思える。隠し事と言うのは、非常に良いスパイスだと思っている俺としては、それが無いという事は、多少の愉しみを失ったのと等しい。しかし残念がってもいられない気がするので、ピースを吸い込んで、吐き出しながら答えた。
「そんな事無いですよ」
「そんな残念そうな声で言わないで下さいよ!」
 彼女は笑った。結果オーライ、だろうか?そんなに残念そうな声を出していた自覚は無いが、どうやら本当に、相当残念そうな声を出していたらしい。無意識とは恐ろしいものだ。
 その後、彼女とは少し話しをした。もう隠す必要が無くなった事、それでも当然ながら職場では節度を保つ事、通勤や帰宅時間の事や待ち合わせ場所、時間、目印。その流れで、当たり前のように、一緒に住もうと言う話になった。どちらも一人暮らしで、通勤距離もさして変わらないので、どっちの家と言う話になる。なし崩し的にこうなって行く事を、俺はあまり快く思っていない気がした。気がした、と言うのは、俺自身がよくわかっていないからだ。俺が彼女に何を望んでいるのか、夢見ているのか、それがわからないのだ。それを見破ったのか、彼女は黙ってこっちを見て微笑んでいる。
「ちょっと、急すぎましたかね」
「あ、いえ、そういうんじゃなくて、俺自身よくわかってないんです」
「そうですか…」
「あの、すみません。俺…」
 彼女は目を閉じてこっちを見ている。誤魔化せ、と言っているのか。誤魔化させてくれるのなら、誤魔化してしまおう。ゆっくりと、距離が縮まる。言い知れぬ違和感を抱えたままである事を悟られないように、一瞬で済ませる。恐怖を芽生えさせてはいけない。悟らせてはいけない。冷静さを失ってはいけない。勢いだけで全てを済ませてはいけない。誰にも、悟らせてはいけない。警戒を解いてはいけない。隙を見せれば、一気に恐怖が芽生えてしまう。そうなったら、俺は正常でいられる気がしない。

 次の日からも、特に何事も変わりが無かった。特に職場の他の人間の見る目が変わった訳でも、環境が変わった訳でもなく、何も無い、普通な毎日が続いていった。何も期待しちゃいない、と言ったら嘘になる。しかし、特に何があって欲しいと思っていた訳じゃない。ただ、俺自身にも変化は訪れず、相変わらず幻影との会話を繰り返し、彼女には何も言えないままでいた。俺が一方的に一定の距離を保ったまま、何日も過ぎ去った。


散文(批評随筆小説等) 面接(10) Copyright 虹村 凌 2009-06-14 01:12:35
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