面接(4)
虹村 凌

 別に、泣く事を堪えていた訳じゃないと思う。感情を押し殺して生きていた訳じゃないと思う。ただ、感動する事が、少なくなっていたんだと思う。何事にも動じない、と言えば聞こえはいいが、結局は無感動と言う、あまり褒められない精神状況であった。別段、感動する事を嫌っていた訳でも、軽蔑していた訳でも無い。ただ、泣く事が極端に少なかった。泣きたかったんだと思う。
 一度泣き出すと、しばらく泣き止む事が出来なかった。彼女は俺の髪の毛を左手で撫でながら、右手で俺の右ひざを叩いていた。何かが、どんどん解けていくような感覚が、胸の真ん中辺りで始まっている。冷たくて暖かいものが、心臓の周りをぐるぐると回っている。それが何なのかわからないけれど、それが収まらない事には到底、泣きやめそうに無い気がする。
「何をそんなに、我慢してたんですか?」
「うぁぁ」
「泣いてちゃわからないじゃないですか」
「うぅ…ぐへっ」
 息継ぎが上手く出来ずに、思い切り咽て、咳き込んだ。ひとしきり咳をして、深呼吸をすると、ぬるくて思い空気が、肺の中に入り込んできた。ジャケットの内ポケットに、何時から入っていたのかわからない、未開封の古いポケットティッシュで、顔中の水分をふき取って、ふと頭を上げると、彼女はじっとこっちを見ていた。
「うぅ…」
 俺は何と言っていいのかわからず、子供のような唸り声しか出せなかった。
 彼女はハンドバッグの中をごそごそやると、手鏡を取り出し、俺に向けて言った。
「まぶた、すごい事になってますよ」
「あ…」
 何と言うベタな展開だろうか。とは言え、こういう場合は、こういうベタな事の方が、気取っていないし、良いんじゃなかろうか。
 それにしても、酷い顔である。赤く腫れあがったまぶたが目を塞いでいる。正直、少し痛い。冷たいものを目に当てたい気分だ。家の冷凍庫にスプーンを入れて、目を冷やしていた事があったが、今ほどそれが欲しい時は他にない。この痛々しいまぶたをどうにかせねば、電車に乗って帰れない。
「何か、冷たいもの買ってきますね。缶珈琲でいいですか?」
 彼女はそっと立ち上がると、財布だけを持って足早に自動販売機の方に駆けて言った。俺は気持ちが少し落ち着いたところで、セブンスターを取り出した。最後の一本を抜き取って、空になったソフトパックを握りつぶす。ぐしゃりと音を立てて、白くて柔らかい箱は捻れて原型を失った。
 少し離れたところで、彼女が自動販売機の白い光に照らされて、暗いビルの谷間の中で浮き上がって見える。暗い中に浮かび上がる白い姿は、もともとが少し細い彼女を、いっそう細く見せる。ガタン、ガタンと言う音の後に、彼女は屈んだ。
 そこまで見ると、俺は視線を地面に落とし、自分の流した涙と鼻水とヨダレが集まった、黒いシミのような水溜りを見ていた。煙草の白い灰がくるくると舞って、幾つかが黒いシミの中に落ちていった。
 自動販売機の灯りに照らされた彼女は、立ち上がると、一瞬だけ闇の中に消えて、再び何処かから差し込む光に照らされて現れたり、また消えたりした。向こうに行く時も、あぁやって出たり消えたりしたのかな、と思う。彼女は近くまで来ると、缶珈琲を放り投げた。
「っとォ。」
「それで冷やして下さいね」
「うん」
 俺は缶珈琲を即座に開けずに、しばらくまぶたに当てていた。熱がすっと引いていくのがわかる。隣で、ジッポで火をつける音がする。ぶわっ、とピースの香りが広がる。


散文(批評随筆小説等) 面接(4) Copyright 虹村 凌 2009-06-10 00:23:45
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