面接(3)
虹村 凌

 生ぬるい風が、ジャケットを抱えた脇の下を通っていく。ションベン横町と呼ばれる薄汚い通りの入り口にある喫茶店を出て、俺は人気の少ない方に歩き出した。咄嗟に良い場所が思いつかないが、とりあえず駅から離れれば、それなりに人気は少なくなるだろう。
 さっきとは違って、俺は彼女の前を歩き始めた。もういっそ、このまま消えていてくれないだろうか。全部嘘で、全部夢で、全部幻だったら良いんだ。そうだよ、こんな事がある訳が無い。俺は一人でお茶を飲んで、俺は一人で店を出た。二杯のんだから二杯分の請求だったんだ。そう思って、後ろを振り向くと、余所見しながら歩く彼女が、俺の真後ろに、いる。
 いた。帰りたい。眠い。

 どうやって辿り着いたのか、ビジネス街のど真ん中にある空きスペースに辿り着いた。摩天楼に囲まれて、小さな月が顔を出している。勿論、星なんざ見えない。地球上じゃ4等星までしか見えないとか言うが、一等星もままならないのが、この都会の空である。
 しかし、俺はよそから来た人に、この街の空の事をとやかく言われるのが嫌いだ。四角いだの、濁ってるだの、汚いだの、星が見えないだの、のっぺりしてるだのと、いわゆる田舎から来た人間は言いたい放題であるが、冗談じゃない。これが俺が見て育った空なのだから、そんなに全力で否定されて、いい気分の訳がない。
 そんな事を考えながら、空いているベンチに座って、セブンスターに火をつけた。彼女も横に座って、黄色いピースに火をつけた。
「もう、話してくれますか?」
 何かが、俺の心臓を締め付けたような気がした。彼女は黙ってピースを吸って、俺の言葉を待っているようだった。
「俺、言ったじゃないですか」
「はい」
 俺の言葉を待っていたのか。少しだけ、彼女の声に明るさが戻った気がした。気の所為かも知れない。勘違いでもいい。そう思わなきゃ、次の言葉が、出てこない。
「女の子、怖いんです」
「はい」
「俺、好きですよ、女の子」
「はい」
「AVとかも見るし、エロ本だって読みます」
「はい」
「正直、この小一時間くらいで、どんどん好きになってます」
「私の事を、ですか?」
「そうです」
 何て呼んでいいのか、わからなかった。
「だったら、いいじゃないですか」
「でも、怖いんです」
「私が、ですか?」
「女の子が、です」
「それは、やっぱり私も含まれてますよね?」
「…はい」
「…」
 最後の彼女の声が、本当に悲しそうな声で、申し訳なくなってくる。
「あの」
「…はい」
 あまりにも力の無い答えだったのだろう、彼女が一瞬、身を乗り出してきたのが、伏せた俺の目の視界の隅の方に見えた。
「幸せに、なりたくないですか?」
 幸せ、と言うざっくりとした、とても不明確で、傍にあったような、ずっと望んでいたような、何となく、俺が考えている幸せと似たような、そんな気がする響きで、彼女は「幸せ」と言った。俺の鼓動が速度を上げた。
「幸せに、なりたくないですか?」
 顔を上げた。彼女がこちらを真っ直ぐに、見つめている。視界がガクガクと揺れる。
「…です」
「え?」
「幸せに、なりたい、です」
 自分でも情けない程に、小さなかすれた声で、俺は答えた。臨界点が近い。
「だったら、何で、幸せにならないんですか?」
 もう、いいのかも知れない。
「助けて下さい…」
「え?」
「俺、幸せに、なりたいです」
「はい」
「でも、怖いんです」
「…女の子が、ですか?」
「幸せになるのが、です」
「幸せになるのが、ですか?それは、終わるのが、とかですか?」
「それも含めて、怖いんです。終わるのも嫌われるのも憎まれるのも、怖いんです」
「何で、そんな事言うんですか?」
「俺、駄目な人です。だから、自信無いんです。失礼だってわかってます。でも、怖いんです。怖くて、仕方無いんです」
「…」
「笑わないで下さいね」
「笑ってません」
「俺、幸せになりたいです。でも、それに抵抗している自分がいるんです」
「抵抗している自分?」
「俺の中の、駄目な俺の中の、その、悪い俺みたいなのがいて、そいつが、俺を、止めるんです。幸せになっちゃいけないって。それが終わったら、お前は立ち直れないって」
「…」
「永遠なんて、信じちゃいません。でも、終わりを見てる訳でもありません。誰だって傷つくのは嫌だってわかってます。俺が人一倍、弱いとかそういう事を言いたいんでも無いんです。ただ、怖いんです。知らない場所に行くみたいに、凄く怖いんです」
「じゃあ、期待もしてるんじゃないですか」
「え?」
「知らない場所に行く時って、何か期待しません?」
「…」
 何かが、プチッと音を立てた。胸の中の、暗くて重い何かが、ずるっと滑り落ちた気がする。頬が熱い。息が上手く出来ない。指の間から、セブンスターがすべり落ちた。
「涙、出てますよ」
「ばい゛…」
「鼻水も、出てます」
「あ゛い゛…」
「顔、ぐちゃぐちゃです」
「う゛ん゛…」
「よだれも、垂れてますよ」
「うぅ…」
「そんなに泣かないで下さい」
 甘えたい、凄い勢いで甘えたい。しかし、彼女の服に鼻水と涙とヨダレが付く。しかし、生憎だが今日の俺はハンカチを持っていない。苦しい。息が出来ない。胸も苦しい。つっかえてた何かが、取れたんだけど、なんか苦しい。息って、どうやってするんだっけ?
 ぐふっ、とむせ返ってから、彼女がハンカチを差し出している事に気付いた。
 あ、と言う言葉が脳味噌の中にポツンと現れた。
「う゛わ゛ぁ゛ぁ゛っ…」
 その日、俺は、久し振りに、声を出して、泣いた。恥も外聞も無く、大きな声で、泣いた。
 ずっと前から、俺は泣きたかったような、気がした。


散文(批評随筆小説等) 面接(3) Copyright 虹村 凌 2009-06-10 00:23:05
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