忘れたらなんか困ること
石川和広

論争スレを読んでいて思ったことを書きます。

私は自分が男しかやったことないので、異なる性の気持ち、存在状況とかそういうのがわかるといったら嘘だとは思う。
けど、どんなジェンダーにいてもね、欲望とか欲求ってのはあるよ。
寂しいときにそばにいてほしいとか、手を握ってほしいとか。

そういう欲求の出どころはよくわかんないんだけど、その欲求からはあまり逃れられないよねって。逃れようとしたのはお釈迦様だけど、お釈迦様は生きているからこその苦しみということをいったような理解を私はしている。けど、それは煩悩とか性欲とか、あれこれいろんな言い方があるよ。その出どころがわかんないが故の面白さ、危険性。
だからその逃れられなさ、わかんなさから話をしないと変になると思った。

もし体を寄せるってことが、純粋な混じり気のない性質をもともと持つなら、問題ってあんまりないかもしれないよ。でも、つきあうから始まって体を寄せるってのは触れるってのはなにかが侵犯し、混ざり合おうとすることだ。そこから深い孤独さえ感じるものだ。
他者と交わるってのはいろんなきっかけや、理由から生じる。
さらに人間って、性交渉とか異性と触れるということに対してかなりいろんなことを考え期待し求め妄想するから、そこからすれ違いというか求めるもののちがいが出て来るの。
でも、触れるということが、ただただきれいでもなく、素敵でもなく、幻滅や邪な心と隣り合わせであり、人間が神でないなら、どんなにいい奴でも正気でいられない部分でありもっとも敏感なレベルの(魂?)の部分を交わらせるってことを忘れたらさ、まずいと思うんです。
人権の尊重、侵害しないってことがきれいごと、不純ではない交流をしましょうという呼びかけやスローガンのレベルで終わってしまう。しかし詩を書いている人なら言葉が空虚なぺらぺらな論で終わるなら、悲しいでしょう。だからって暴力的に訴えたりしても本末転倒で、それはさらに荒んだ気持ちさえ生み出すこともある。だからって、全く無傷な人もいられない話題だ。
それは飛躍するけど、犯罪、民族紛争でも似ていて、つまり、理想的なケースにもっていけるってあまりにも主張すると逆にそこから離れることもあるのよ。正義が大手をふるって町を破壊するみたいなことになるよ。

邪であったり、私欲をもつ人間がだからこそ、その上に美しい関係も作りうるという逆説の部分を入れ込んで話しない限り、人間を尊重し、ひとを大事に、豊かにするという呼びかけは往々にして空無に終わるように思う。

つまり人間が複雑な社会に生きていていろんな種類の孤独をもって、そこからつながりうるということが、あるときは暴力としてでてしまうとしたらどういうことか。わかんないけど。難しいけど。詩だってそこに根ざしているはず。
だったら、そこをとりあえずはじっくり自分の底から、その根底から考えて見ないと他者を説得し暴力や侵害を抑止する力は生れないかなと思う。欲望や関係自体が間から生成するんだから、そういう境界領域が誰かと誰か、自分とあの子の間に生じるものなら、それは良きものをも生み出す諸刃の剣。だって、人と理屈のレベルではなく、深く深く包まれる形で包摂され、しあうということは多くの人が望んでいるだろう。そして時にそういうつながりが恩寵のように訪れることさえあるということ。しかしまさしくそういう優しささえ時によっては絶対的に相手に苦しみを与えるから。

個別の事例に望むときに、その人そのものに関わる時にこういう話は個人的にはおさえたいところだ。忘れがちになるんだけども。だから書いておいたんだ。なんか妙な塩梅の文章になってしまった。


散文(批評随筆小説等) 忘れたらなんか困ること Copyright 石川和広 2009-03-30 23:21:22
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