潮騒のひと
恋月 ぴの

よっこらしょ

そんなことばが口癖となった
ひとしきり身の回りの片づけを終えると
臨月の大きなお腹を抱え物干し台兼用のテラスへ這い登る

白いペンキを塗り重ねた木製のデッキチェアに身を委ね
臙脂色のストールでとがったお腹を労わりながら
近くの図書館で借りて来た童話を読み聞かせてみたり
お腹に添えた掌で軽くあやしながら知ってる限りの童謡を口ずさむ

離れ離れとなってしまう我が子に私の声を覚えて欲しい
こんな産みの母であったとしてもあなたのことを心から愛していると

ピィヒョロヨヨヨゥ鳶が宙で鳴いている

仮に女の子だったとしても産み育てるつもりだった
愛していたあのひとの子
男の子だと判ったとき私はかなり迷った
たとえ貧しくともふたりで生きて行く
母となる女なら必ずそうするであろう選択を私は選ばなかった

読み終えた童話を閉じれば晩秋の海岸線は儚く砕けて眩しい

私からの連絡に美佐子さんは有無を言わさず私に仕事を辞めさせ
遠い親戚の持ち物だという海辺の別荘に私を住まわせた

なんならずっと住んでもかまわないから

我が子を奪われた女の行く末を案ずるというよりも
跡取り息子の産みの母の居所を常に把握しておきたい
そんな意図が言葉の端々に見え隠れした

良く晴れた日には近くの灯台まで散歩してみることもある
道すがら立ち寄ってみた小さな漁港ではゴム長を履いたおんな達の姿
水揚げされたばかりの魚を台車に乗せ運んだり
干物用にと忙しく腸を取り除いていた

秋の日は釣瓶落としと人は言い

逆子だと診断され慌てふためいたのも大切な思い出となるのだろうか
お腹を蹴る力強さを増してきた我が子がいとおしくて

あのひとのこと
美佐子さんは今でも愛しているのだと思う
腹違いであったとしても愛するひとの子を引き取って育てようとする思い
今の私には判りすぎて胸が痛くなる

ふたりの女に愛されたあのひとって幸せだったのかな

ネットの片隅に見つけた小さな記事
私が死にそこなったキャンプ場近くの雑木林で見つかった自殺体
遺体の腐乱が激しくて未だに身元が判明しないのだとか
もしかしてあの女のひとではと気になってしまう
重い足取りで各駅停車に乗り込んだひと
私の様子を窺うように車内から顔をのぞかせていたひと

首を吊ったままぶら下がっていたのだろうか
一個の物体と化して木々を抜ける風に揺れていたのだろうか

この子を美佐子さんに託したらあの待合室を訪れてみよう

そして雑木林の自殺体があの女のひとでは無いことを確めてみたい
以前と変わらぬ時刻に普通電車へ乗り込む姿を
それでいて憑き物が取れたのか晴れやかな表情でいることを


ピィヒョロヨヨヨゥ鳶が宙で鳴いている


自由詩 潮騒のひと Copyright 恋月 ぴの 2009-03-17 09:30:32
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