今回はタイトルにもあるように、時折算数を引き合いに出す。何故なら、僕は算数が苦手だからだ。通れない場所に隣接したほうが、通れる道は明瞭になる。僕が自信を持ってできるのは、せいぜい四則演算の程度なので、これは中学生くらいなら全員出来ることだろう。時折出来ない範囲の話も出てくるだろうが、それは出来ないということを確認するために過ぎないので、ひとまずは無視してもらっても構わない。
では、はじめよう。
まず、ひとつ、ということについて、考える。
ひとつ、というのはどういうことだろうか。
1+1=2
これはおそらく、全日本人が真っ先に学ぶ演算だろう。
「ひとつ」と、「ひとつ」。これで、「ふたつ」。
実に明瞭である。しかし、「ふたつ」とは本当に、「ひとつ」と「ひとつ」が合わさったものなのだろうか?「ふたつ」は、ひとつの単語である。この意味では、1と1を演算した結果、別の意味を持つ1が生成される。今回の文章の主眼は数学ではないので、こう言いきってしまっても問題はあるまい。
また別の操作を考える。
「ひとつ」と、「ひとつ」。
これを直接、連結する。すると、「ひとつひとつ」という慣用表現が出来上がる。
「ひとつひとつ」は、2だろうか?いや、そうではない。「ひとつひとつ」は、ひとつの単語(あるいは連語、と言うべきだろうか?)である。また、「ひとつひとつ」の内実は、1の集合である。1ではない。が、1以上の複数であって、それがいくつあるかはわからない。この二重の意味で、「ひとつひとつ」は(必ずしも)、2、ではない。
話を一度、詩に返す。
詩をつくる、というのはどういうことだろうか。
なにも哲学的な問いかけをしたいわけではない。詩をつくる、というのは、まずは、「一編の詩作品をつくる」ということである。ふたつ以上の詩を、ひとりの書き手が同時につくることはできない。私たちは、製作の際には、常にひとつの作品を作っている。
では、「ひとつの詩」とはなんだろう?
狭義での詩は、幾種類かの語の連結である。この連結の操作を行い、定着させるのが書き手の仕事であることは、ひとまずご了解いただけるかと思う。その時に、私たちは、「ひとつの詩」を書くことしかできない。言い換えるならば、書くときに、私たちは「ひとつの詩」にせざるを得ないのだ。
ここで先ほど述べた1のことを思い返してほしい。単純に言葉を連結させた時点で、2以上は1に回収される可能性を孕んでいる。つまり、私たちが常に取り扱っているものは、1なのだ。少なくとも、1の可能性を孕む複数なのだ。
ここで初めて、作家の意思があらわれる。
純然たる1を目指すのか?それとも、複数を孕む1を目指すのか?
これは各々で操作すればいい事項である。好きにしてくれ。ただし、「ひとつの詩」を書くことしかできない、ということは、書くプロセスにおいて演繹的にか帰納的にかは知れないが、常に1を纏っている。そのうえで、集中したり、拡散したりする。まずこのことは意識の端に置くべきだ。
まとめる。
詩を書くということは、複数の言葉(記号、と言い換えてもいいだろう)を、1を内包する性質の群にすることだ。
それから、当然ご了解かとは思うが、今後読み進めていく上でのこともある、一応、このあたりで断っておく。
全ての事項には、例外がある。
(勿論、続く。)